『方丈記』が成立したのは1212年、鎌倉時代に書かれた作品です。その根拠となるのは『方丈記』の最後の文で、次のように記されています。
時に建暦の二年、弥生のつごもりころ、桑門の蓮胤、外山の庵にしてこれを記す。
建暦2年は西暦1212年、弥生は3月、つごもりは月末を表す言葉です。この年の3月は「小の月(日数の少ない月)」で、3月29日が末日でした。建暦2年3月29日を現在使われているグレゴリオ暦に変換すると、1212年5月9日となります。
この記事では『方丈記』がいつ成立し、いつの時代のことが書かれているのか、『方丈記』の記述をもとにわかりやすく解説します。
方丈記が成立したのはいつの時代?
冒頭で述べた通り、『方丈記』が成立したのは建暦2(1212)年の弥生(3月)末頃です。時代は鎌倉時代の初頭、元号が「承元」から「建暦」へと改元された翌年のことでした。
建暦へと改元された理由
建暦に改元されたのは承元5年3月9日、ユリウス暦で1211年4月23日、グレゴリオ暦で1211年4月30日のことです。改元の理由は順徳天皇の代始。承元4年11月25日に順徳天皇が即位し、その翌年に元号が改められました。即位と改元が同時ではないのは、平安時代には皇位継承の年に先帝の年号を改めるのは非礼であるという考え方があり、即位の翌年に改元するのが通例となっていたためです。
順徳天皇は鴨長明もお世話になった後鳥羽天皇の第三皇子です。順徳天皇の先帝である土御門天皇も後鳥羽天皇の息子で第一皇子。建久6(1195)年に後鳥羽天皇から譲位されて3歳で即位しましたが、事実上は上皇となった後鳥羽上皇による院政でした。
土御門天皇は心優しい穏和な性格であったようで、鎌倉幕府からなめられてしまうことを心配した後鳥羽上皇は退位を迫ります。そして土御門天皇が譲位したことにより、14歳で即位したのが順徳天皇です。しかし結局は後鳥羽上皇が権力を掌握し、承久の乱で大敗するまで院政が続きました。
方丈記はいつ書かれた?
『方丈記』が成立したのは建暦2(1212)年3月末頃ですが、その頃に一気に書かれたのか、何十年も前から書き溜めていた文章をまとめたのか、については諸説あります。
前半部分は平安時代末期、安元3(1177)年の「安元の大火」から元暦2(1185)年の「元暦の大地震」まで、災害の記録が克明に書かれています。『方丈記』が成立する30年以上も前の出来事が非常にリアルに描写されているため、とても記憶だけを頼りに書いたとは思えません。何かしらレポートとして残しておいたものを、改めて書き直したのではないでしょうか。
後半部分は鴨長明が30歳を過ぎて実家を出てから方丈の庵に至るまで、約30年間の半生について書かれています。こちらは方丈の庵での気ままな暮らしぶりが生き生きと書かれており、『方丈記』が成立する前に執筆されたのではないかと思います。
前半部分に書かれている災害の記録
『方丈記』は日本最古の災害文学ともいわれており、鴨長明が実際に経験したと思われる次の5つの災害について、迫真の描写でリアルに記録されています。
- 安元3(1177)年:安元の大火
- 治承4(1180)年:治承の辻風
- 治承4(1180)年:福原遷都
- 養和元(1181)年:養和の飢饉
- 元暦2(1185)年:元暦の大地震
安元の大火
安元3(1177)年4月28日に発生し、平安京の3分の1が焼け落ちたとされる史上最大級の大火災です。立派な大豪邸も一夜にして灰になるのを見て、家が密集して大火災になるリスクが高い都内に、財産をつぎこんで家を建てようなんて愚かなことだと述べています。

そいう長明はまだ実家の大豪邸に住んでいたかも
治承の辻風
安元の大火からわずか3年後の治承3(1180)年4月29日、今度は平安京を辻風が襲いました。辻風とは竜巻のことで、巻き込まれた建物は「大きなるも、小さきも、一つとして破れざるはなし」と書かれています。
藤原定家の『明月記』にも描写されており、当日は晴天であったのに急に雹が降り始め、落雷とともにつむじ風が吹き抜けていったとのこと。まさに青天の霹靂であり、長明は神仏の警告ではないかと疑ったのでした。
福原遷都
治承の辻風が発生した2か月後には、平清盛の号令により平安京から福原京への遷都が強行されました。長明は実際に福原へと足を運び、現場の様子を細かく伝えています。海と山に挟まれて平地が少ない福原は、都とするにはあまりに向いていない土地でした。皇居すらまともに造れず、結局半年で計画は頓挫。平安京に戻ってきたのでした。
平時忠が「平家にあらずんば人にあらず」と言い放つほど、平家全盛の時代。その波に乗り遅れまいと真っ先に平安京を捨てて福原へと移る役人や、一方的に土地を奪われる福原の人々の嘆きも描写されています。平安京は荒れ果て、野蛮な武士の風俗へと成り下がり、治安も悪くなっていったのでした。
養和の飢饉
福原遷都の翌年からは飢饉が発生します。養和元(1181)年から寿永元(1182)年にかけて続いた飢饉により、平安京内だけで42,300人が亡くなりました。当時の平安京の人口は約10万人といわれておりますので、半数近くが命を落としたことになります。
天候不順に加えて疫病も発生し、賀茂川の河原には馬も通れないほど死体が山積み。市中には悪臭が充満していました。食料と交換しようと家財を片っ端から売ろうとするも、一日の命をつなぐ分にもなりません。寺に押し入って仏像を盗む救いようのない人まで現れ、どうしてこんな汚れた世界に生まれ合わせたのかと、長明は嘆くのでした。
元暦の大地震
元暦2(1185)年7月9日には、マグニチュード7.4と推定される大地震が起こりました。平成7(1995)年の兵庫県南部地震の規模がマグニチュード7.3ですので、すさまじく揺れたのでしょう。
山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌割れて谷に転び入る。
と、津波や液状化現象と思われる描写もあります。余震も3か月ほど続きました。しかし月日がたてば人々の記憶は薄れ、話題にする人さえいなくなってしまうのでした。
ちなみにこの3~4か月前、元暦2(1185)年3月24日に壇ノ浦で平家が滅亡しています。地震は平家の怨霊だという噂も流布されたそうです。
後半部分は鴨長明の半生
『方丈記』の後半は長明の半生について書かれています。長明の生年は1155年または1153年といわれていますが、どちらにしても1180年代後半から1212年に『方丈記』を成立させるまで、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての時代です。『方丈記』の後半部分を簡単にまとめます。
30歳過ぎで父方の祖母の家を出る
鴨長明は下鴨神社の神職の家系に生まれたお坊ちゃまです。しかし父が亡くなり後ろ盾のなかった長明は跡を継ぐことができず、親族との関係も悪くなっていました。父方の祖母の家に住んでいた長明でしたが、とうとう家にいられなくなってしまい、30歳を過ぎて家を出て、自分で小さな家を建てます。前に住んでいた家の10分の1の大きさで、河原に近く水難の恐れもある場所でした。
その後も人生がうまくいかず、50歳の春には出家。妻も子もなく、捨てがたき身寄りもなしと『方丈記』に書いています。ただむなしく大原山に隠れ住んで、5年の年月を過ごしました。
六十路の露消え方に方丈の庵を製作
出家してもなお大原での人間関係がうまくいかなかった長明は、その土地が嫌になったらすぐに引っ越せるように移動式の住居を製作します。それが方丈の庵です。
方丈とは一丈四方、1丈は約3メートルですので、約9平米(5.5畳)の広さです。長明はこれを「中ごろの住みかにならぶれば、また百分が一に及ばず」と記しています。『方丈記』はこの方丈の庵で書かれた作品です。
自ら休み自ら怠る気ままな暮らし
方丈の庵を運んで日野山の奥へと隠れ住んだ後は、ようやく生活が楽しくなってきたようです。『方丈記』の文体が明らかに明るくなります。誰もいないので仏道の修行をサボっても何も言われませんし、何もなければ禁戒を破りたくなるような誘惑もありません。気が向いたら好きな音楽を奏でたり、遠くへ出かけてみたりと、自由気ままな暮らしを謳歌します。
でも都への未練も断ち切れなかった
こうしてまた5年がたち、すぐ引っ越せるように作ったはずの方丈の庵が移動することはありませんでした。しかしまだ都の様子が気になっていたようで、「事のたよりに(何かのついでに)」都のことを尋ねては誰々が死んだとかいう話を聞いています。
長明は晩年、鎌倉へ出向いたことが記録に残っています。時の将軍、源実朝に招かれて、あわよくば和歌の先生として雇ってもらえるのではないかと期待したのかもしれません。あるいは、持ち前の好奇心から鎌倉を見てみたかったのかもしれません。
『方丈記』のラストは、結局煩悩まみれではないかと、自分の生きざまを自ら問うて終わります。父の跡を継いで、周りから認められて、都でうまくやりたかった、というのが本音だったのではないでしょうか。
今の時代にも通じる鴨長明の生き方
いつの時代も悩みというものは、人間関係からくるものがほとんどかと思います。私自身も人間関係に失敗して、家族以外の付き合いはほとんどありません。独りでいることは楽ですが、正直に社会でうまくやれてる人たちがうらやましいです。
そんな私にとって『方丈記』は大変心に刺さる古典文学でした。リアルだけでなくネット上での人間関係も面倒くさい現代を、気ままに生き抜くヒントが詰まっていると思います。生きづらいと感じているほど、ぜひ『方丈記』を読んでみてください。