2024年10月20日(日)から始めようと決めた長崎街道ウォーキング。やる気は十分だったんですけどね、いろいろと忙しかったり、寒かったり、寒かったりで、このポスト以来まったく進んでおりませんでした(汗)。
思いつきで始めた街道を歩く旅。昨日は九州の入口、大里から小倉までの門司往還を歩きました。普通の道でも、かつて様々な人や物が行き来していたと思うと面白いです。小倉は諸街道の起点。まずはやはり長崎街道からかな。小倉から長崎まで57里(約228km)。これまた10年かけて踏破したいと思います。 pic.twitter.com/BDiWtSwIZA
— ヤンピン (@yangping_gt) October 21, 2024
前回からちょうど半年、2025年4月20日(日)にようやく2回目の長崎街道ウォーキングを実行。当初は「小倉の常盤橋から順路通りに」と思っていたのですが、そんなことを気にしているとまた進まなくなってしまうので、行ける時に行ける所へ行こうと、黒崎宿周辺を散策しました。

前回歩いた「大里~小倉」の記録もブログにまとめなくては⋯⋯。
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黒崎宿とは

黒崎はもともと城下町として建設された町でした。慶長5(1600)年に関ヶ原の戦いの功により筑前国主となった黒田長政の命を受けて、慶長9(1604)年に黒崎城が完成。しかし元和元(1615)年に出された一国一城令により、わずか十数年で取り壊されることになりました。
その後、城の南側になった堀を埋め、城下町から宿場町として再整備されたのが黒崎宿です。福岡藩では唯一の、上方への渡海船(乗合貨客船)が発着する港があり、小倉から来て筑前最初の宿場町であったことから、対馬と五島を除く九州西半の大名や多くの旅人に利用されました。
出入口である西構口から東構口までの距離は九町二十間(約1.1km)。従来の藤田・熊手、新開地の田町との新旧三町にまたがって開発されたために、宿場町の中でも町筋が長いことが特徴の一つです。
ウォーキングルート
- 乱橋
- 黒崎宿西構口跡
- 岡田宮(岡田神社)
- 興玉神
- 黒崎宿跡
- 黒崎宿代官所之跡
- 旅館櫻屋跡
- 黒崎宿東構口跡
- 田町歴史の径広場
- 黒崎城址
黒崎宿を歩く
乱橋


黒崎宿で町茶屋(脇本陣)を営み、松尾芭蕉の門人であった俳人「関屋沙明」が、
ほたる飛ぶ松のはずれや乱橋
という俳句を残しています。かつては初夏にホタルが乱れ飛んでいたことから、「乱橋」と名付けられたのかもしれません。橋の名前ではなく、元々の地名であったという説もあります。
案内板によると「②湊天満宮跡」というのが近くにあるはずなのですが、周辺を散策しても見当たりませんでした。まあまあ強めの小雨が降る中、傘もささずに20分ぐらいうろうろしたのですが⋯⋯。今このブログを書きながらインターネットで調べてみても、まったく情報が出てきません。もしかして、もう無くなっているのでしょうか? もし何か情報を知っている方がおりましたら、ぜひ教えてくださいませ。

すぐやむって天気予報だったから、傘を買うのがもったいなかったかも。全然やまなくてびしょ濡れになったかも。
黒崎宿西構口跡

構口とは宿場町の出入口に標識として築造された白壁の土塀で、高さは約2メートル、長さは約20メートルあったといわれています。いわゆる番所のことで、行旅の人を監視することが役目。黒崎宿を通過するには必ず、東と西にある構口で検査を受けなければなりませんでした。
実際の方角に関係なく、江戸に近い方が「東」、遠い方が「西」。黒崎宿は西から北東へと伸びているので、西構口は普通に西です。西構口から東構口までは九町二十間(約1.1km)。町筋の距離が長いのが、黒崎宿の特徴の一つでもあります。
岡田宮(岡田神社)
西構口跡から長崎街道を東へしばらく歩くと、右手に1ブロック離れた先に鳥居が見えます。岡田宮(岡田神社)の鳥居です。




古代の崗地方(遠賀川流域)を治めていた熊族が、その祖先神を奉斎したのが始まりと伝わる古社。古事記には神武天皇が日向から東征する途中、岡田宮に1年間滞在したと記載されています。また、日本書紀には仲哀天皇8(199)年に、神功皇后が三韓征討の折に親祭したと伝えられています。

江戸時代中期に、黒崎を訪れた松尾芭蕉の弟子たちと地元黒崎の俳人12名が、黒崎の風景を詠んだ俳句の碑です。先に紹介した「ほたる飛ぶ松のはずれや乱橋」もこの碑に刻まれています。

なんと万葉歌碑がありました。こちらの3首については別記事でまとめたいと思います。


境内は丁寧に手入れされていて、厳かでありながら心地よい雰囲気でした。パンフレットも用意してあり、かなり詳しい内容です。勉強してまたじっくりと訪問したいと思います。
くまで通り


善定寺沿いの道を歩いて長崎街道へと戻り、現在はアーケード商店街となっている「くまで通り」へと入っていきます。実は会社員の頃、くまで通りへ飲みに行くことが多かったのですが、当時は長崎街道なんてまったく意識していませんでした。こんなにでかでかと書いてあるのに、興味がなかったというより心の余裕がなかったんだろうなと今になって思います。


日曜日の日中だったからか、お店はほとんど閉まっていて人もまばら。でもこの雰囲気は好きです。

人情横丁で飲みたいかも♪

興玉神は旅の安全を守る神様として崇められ、猿田彦大神またはその子孫である大田命の別名であるといわれています。こちらの興玉神は永禄8(1565)年に、岡田宮の前身の一社である八所大名神社の大宮司であった波多野直重(民部大輔)が、猿田彦大神の御分霊を伊勢国から勧請して建立されたそうです。
黒崎宿跡


くまで通りを出て信号を渡り、宿場通りを少し歩くと「黒崎宿案内板」があります。ちょうどこの辺りが黒崎宿の中間地点、西構口と東構口との真ん中ぐらいになるのでしょうか。「黒崎宿跡」の看板もありました。



雨はやまないどころか強くなってるかも⋯⋯。
黒崎宿代官所之跡

黒崎宿の看板のすぐ近くには「黒崎宿代官所之跡」の石碑が立っています。代官所とは江戸幕府直轄の領地に設置された役所で、幕府から派遣された代官が年貢の取り立てや地方行政を担っていました。
「お代官様」「おぬしも悪よのぅ」でおなじみの悪いイメージがありますが、税収をコントロールできる立場ですから悪代官も実際にいたことでしょう。ただ、過酷な年貢の取り立てにより農民が逃げ出してしまうとかえって税収が減るため、私利私欲に走り評判の悪い代官を罷免できる政治体制もあったそうです。

旅館櫻屋跡


藤田二丁目の交差点で3号線を横断し、踏切の方へ歩くと左手に長崎街道の標識があります。ここが櫻屋旅館跡です。


櫻屋は文化5(1808)年頃の創業と伝わる旅籠で、古くは薩摩藩の定宿であったことから「薩摩屋」と称していたそうです。幕末期には薩摩藩、長州藩、土佐藩など攘夷派の御用達となり、坂本龍馬や西郷隆盛も泊まったとか。櫻屋の当主も三条実美や東久世通禧など、「七卿落ち」事件で京都から追放された攘夷派の五卿を支援したといわれています。
2基の歌碑には櫻屋の主人であった古海東四郎正顕と、三条実美と東久世道禧が詠んだ歌が刻まれています。櫻屋の離れ屋敷の庭に、正顕の子孫が建立したそうです。
黒崎宿東構口跡

西構口から約1.1km、ようやく黒崎宿を抜けました。東構口には4人、西構口には3人の役人が昼夜交代でつめ、行旅の監視をしていたそうです。


田町歴史の径広場

東構口跡を過ぎてもうしばらく歩くと、「田町歴史の径広場」という一角があります。ちょっとした博物館のような、かなり情報量が多いです。




黒崎城址

さて歩き疲れてきたところでありますが、田町歴史の径広場から見える小高い山が黒崎城址だろうと、坂を上っていくことに。





黒崎帖は慶長9(1604)年に、筑前福岡藩初代藩主の黒田長政の命により建設されましたが、わずか十数年で取り壊されました。元和元(1615)年に幕府から「一国一城令」が発布されたためです。大坂の陣で豊臣家が滅びた直後であり、幕府への反乱がおこらないように、特に西日本の外様大名の戦力を削ることが目的だったといわれています。



黒崎城址からの眺めが良くて上った甲斐がありました。右側の建物群は安川電機本社。左手には皿倉山が見えます。

天気の良い日にまた来たいかも♪
黒崎宿周辺の未訪問スポット

今回は合計で2時間ほどの散策でした。JR黒崎駅への往復も含めると3時間ほど。帰りは長崎街道を歩いてJR八幡駅までと思ったのですが、黒崎城址への登山でなかなかに疲れたので黒崎駅へ戻りました。
黒崎宿周辺にはまだまだ見所がたくさんあり、今回行っていない場所や素通りしてしまったスポットもあります。また時間を作って探索したいと思います。
- 御茶屋跡
- 人馬継所跡
- 春日神社
- 浄蓮寺
- 秋月藩屋敷跡
- 五卿上陸地
- 黒崎湊跡
- 曲里の松並木