木曾義仲はなぜ殺された?頼朝・義経と戦うハメになった経緯

 寿永3(1184)年1月20日、粟津の戦いで討ち死にした木曾義仲(源義仲)。最期に戦った相手は、源頼朝が派遣した軍隊です。義仲は頼朝と同じ源氏であり、従兄弟という関係。頼朝の弟である義経も、義仲の従兄弟です。

 源氏にとって共通の敵は平氏であったはずのに、なぜ源氏同士で協力することなく、争っていたのでしょうか。木曾義仲がなぜ頼朝・義経と争った末に殺されてしまったのか、その理由と経緯をまとめます。

源義仲と頼朝・義経との関係

兄の息子(甥)に殺された義仲の父、源義賢

 木曾義仲こと源義仲は、久寿元(1154)年に武蔵国秩父(現在の埼玉県)で誕生しました。父親は源義賢。河内国(現在の大阪府)を根拠地とする河内源氏の一門です。義賢には義朝という兄がいましたが、二人の父親である源為義と対立し、南関東へ勢力を伸ばしていました。それに対抗するために、義賢は父為義の命で北関東へ進出。その際に武蔵国の最大勢力である秩父重隆の娘をめとり、その間に生まれた子どもが義仲でした。

 しかし、久寿2(1155)年8月16日、義賢は兄義朝の息子、つまり甥である源義家に襲撃され、義父の秩父重隆とともに戦死。まだ2歳だった義仲は、信濃国の木曾を地盤とする豪族、中原兼遠に引き取られました。義仲は木曾の地で、『平家物語』の「木曾の最期」で最後まで一緒に戦うことになる今井兼平、巴御前らと共に武芸を磨いていったとされています。

 ちなみに、義賢の父、つまり義仲の祖父である源為義は、保元元(1156)年に起きた保元の乱で敗北し、長男の義朝(義賢の兄)の手によって処刑されました。要するに義仲の父・祖父ともに、源義朝の手によって殺されたのです。

義賢の兄である源義朝が、頼朝・義経の父

 その源義朝が、頼朝・義経の父親です。いったん関係性を整理すると、源為義が義仲・頼朝・義経の祖父、為義の長男である義朝が頼朝・義経の父、次男である義賢が義仲の父であり、義仲と頼朝・義経は従兄弟という関係になります。頼朝は義朝の三男で久安3(1147)年生まれ、義経は九男で平治元(1159)年生まれ。頼朝は義仲より7歳上で、義経は義仲の5歳下です。

 頼朝・義経の父義朝は、義経が生まれた平治元(1159)年に起きた平治の乱で敗れ、討ち死にします。義仲の父義賢を討った兼平は処刑され、頼朝は伊豆国への流罪となりました。生まれたばかりの義経は、鞍馬寺へ預けられた後に平泉の奥州藤原家のもとへ下ったとされています。木曾の義仲、伊豆の頼朝、平泉の義経。それぞれ別の地で育ち、特に接点もなく、お互いの顔も知らなかったのでしょう。ただ従兄弟という関係があるだけで、仲間意識のようなものは特になかったのではないでしょうか。

以仁王の令旨により義仲・頼朝が挙兵

 治承4(1180)年4月9日、後白河天皇の第三皇子である以仁王が源頼政と結託し、平氏討伐の令旨を諸国の源氏に下しました。令旨を全国に伝達して回ったのは源行家。行家は義仲・頼朝・義経の祖父である為義の十男、つまり3人の叔父です。頼朝に令旨を伝えたのも行家とされています。

 以仁王の計画は令旨が全国に行き渡る前に平氏側にバレてしまい、以仁王は戦死してしまいます。しかし、令旨を受けて諸国の源氏が次々と挙兵。源頼朝は治承4(1180)年8月17日、木曾義仲は同年9月7日に挙兵します。義経は頼朝のもとへ馳せ参じました。両者ともに敵は平氏。義仲と頼朝に仲間意識はなかったとしても、この時点ではまだ敵ではありませんでした。

木曾義仲と源頼朝との関係が悪化した理由

頼朝と敵対する叔父を仲間にしてしまった義仲

 信濃の木曾で挙兵した義仲は、北陸道へと進出していきました。頼朝との衝突を避けるためでもあったのですが、頼朝と敵対していた志田義広を仲間にしてしまいます。志田義広も源為義の息子で、義仲・頼朝・義経の叔父。義広は鹿島社所領を押領したことを頼朝につつかれて逆ギレ。2万の兵を集めて頼朝を攻めますが、敗北。頼朝から逃げて、甥っ子の義仲に助けを求めたのでした。義仲は頭が悪かったのか、人が良すぎたのかわかりませんが、叔父の義広を受け入れてしまいます。頼朝からするとクソ叔父をかくまった奴として面白くありません。

 義仲はさらに、源行家も庇護してしまいます。行家は以仁王の令旨を頼朝に伝えた人物。ただ、頼朝に協力することはなく、独立勢力を志向。しかし平家に惨敗し、頼朝のもとに逃れます。その時に頼朝に所領を求めますが、頼朝は拒否。すると行家は逆ギレし、義仲を頼っていったのでした。頼朝からすると義広に続いてクレクレクソ叔父の行家までかくまう義仲が、もはや馬鹿に思えたのかもしれません。

後白河法皇に嫌われてしまった義仲

 世間に先に名を轟かせたのは木曽義仲でした。倶利伽羅峠の戦いで10万の平氏軍を破り、平家を都から追い出します。日ごろから平氏に恨みを抱いていた民衆は「朝日の将軍」と呼んで大歓迎。それまで無名で無位無官であった義仲は従五位下に叙され、一躍上流階級の仲間入りを果たします。

 しかし、上流社会とは無縁の田舎で育った義仲には、教養がありませんでした。当時の京都は養和の飢饉により食糧が不足している状態でしたが、義仲は軍隊の兵糧を徴発しようとします。義仲軍に所属する武士たちも素行が悪く、都内での略奪行為が横行。「平氏の方がまだマシだった」と、市民からの支持率が低下していきました。

 義仲が嫌われることになる決定打は、天皇の皇位継承問題に口を出してしまったことです。都落ちした平氏は安徳天皇を連れており、都は天皇不在の状況でした。平氏に天皇返還を求めるも交渉ならず、高倉上皇の二人の皇子、三之宮か四之宮のどちらかを擁立することに決めます。義仲はあろうことか、そこに口を出してしまったのです。北陸宮を即位させるべきだと。北陸宮は以仁王の子で、義仲が北陸道に進出した際に擁護した人物。平氏がいなかったら以仁王が即位していたはずだから、その系統の北陸宮こそがふさわしい、という意味のわからない理由で推してきたのです。

 これには後白河法皇のみならず、宮中の公卿たちから呆れられます。義仲に見切りをつけた後白河法皇は、都の治安維持に失敗したことを責めて「何か手柄をあげてこいや」と播磨国へと出陣させました。うまいこと言って義仲を京から追い出した後白河法皇は、頼朝に歩み寄ります。

寿永二年十月宣旨に猛烈に抗議する義仲

 後白河法皇は源頼朝に「寿永二年十月宣旨」を下します。これは東日本の支配権を頼朝に認めるもので、頼朝は兵糧を京に供給することを条件に、朝廷に取り入ったのでした。そして頼朝は宣旨施行のためという口実で、源義経・源範頼らの軍を京へ派遣。西国で平氏と戦っていた義仲の耳に、源義経が数万の兵を率いて上洛するという情報が入ります。

 義仲は平氏に苦戦していました。水島の戦いで惨敗し、軍勢が激減していたところに義経軍上洛の一報を聞き、後白河法皇が頼朝に寿永二年十月宣旨を下したことを知り、大激怒。しかし、もはや義仲に味方するものなどなく、どんどん追い込まれていきます。頼朝軍と戦う覚悟を決めた義仲は、法住寺を襲撃して後白河法皇を幽閉。再び主権を取り戻しますが、もはや味方はいないのです。後白河法皇を救出しようという義経軍に人が集まり、義仲の敵は増えるばかりでした。

木曾義仲の最期

 ここで再び登場するのがクレクレクソ叔父さんの源行長。行長は義仲と入京した際、義仲との勲功の差に不満を感じ、義仲と仲が悪くなっていました。勝手に行動して、平知盛軍と戦います。しかし当然のごとく敗北。大阪の河内長野城に立てこもります。

 義仲は行家追討のチャンスと、樋口兼光を河内長野城に派遣します。しかしもうその時には義経軍が迫っており、とうとう宇治川で戦うことになりました。支持率の低い義仲軍は1,000騎ほど。義仲は敵も1,000騎ほどだという噂を信じて待ちかまえていましたが、来たのは3万騎の源範頼軍、2.5万騎の義経軍でした。

 義仲は今井兼平に500騎を渡し、瀬田の唐橋で範頼軍と戦わせ、志田義広らに300騎を与えて宇治川で義経軍を相手させ、義仲自身は後白河法皇の院御所付近で100騎で構えていました。今井兼平は義経軍に宇治川を突破され、ついに義仲軍と義経軍との争いになります。義経軍の中に入り縦横無尽に駆け回りますが、後白河法皇を義経に確保され退却。今井兼平と合流するために瀬田へと向かいます。

 今井兼平もまた、主君である義仲の安否が気になり、京へと引き返します。宇治から京へ向かう今井兼平と、京から宇治へと向かう木曾義仲は、粟津で合流。今井兼平が旗を上げると、近くに逃げ潜んでいた味方の軍勢が300騎集まりました。そして一条忠頼と遭遇し、最後の戦いが始まります。相手は6,000騎。300騎の義仲軍はとうとう残り5騎となりました。

 最期に残ったのは、木曾義仲、今井兼平、巴御前、手塚光盛、手塚別当の5人。手塚光盛と手塚別当は間もなく討ち死にし、巴御前は恩田八郎の首をねじ切って離脱。最後の最後は木曾義仲と今井兼平の二人になりました。そこにまた新たにやってきたのが50騎の敵。兼平は義仲に、松原へ入って自害することをすすめます。義仲は「さらば」と松原へ入り、兼平は討ち死に覚悟で50騎と戦います。しかし、義仲の馬が深田にハマり、あえなく討ち死に。それを見た兼平は自害。こうして木曾義仲は滅亡しました。