巴御前は実在しない?「木曾の最期」の巴と義仲の関係を考察

 木曾義仲に仕えた女武者として知られる巴御前。『源平盛衰記』に登場する人物ですが、当時の一次資料や鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡』には記述がなく、実在しないのではないかともいわれています。

『平家物語』によると、巴御前は色白で髪が長く、端正な顔立ち。武器を持たせれば、鬼でも神でも相手にしようという強者。義仲軍が残り5騎になっても生き残り、「女なのだからどこへでも行け」と逃亡を促す義仲の前で、最後の戦を見せてやろうと敵将の首をねじ切りました。

 人物像もエピソードも大げさで作り話のように思えてしまいますが、美しく強い女性がいたことは当時としても決して珍しいことではなく、『吾妻鏡』には「板額御前」という豪傑の女武将が登場しています。板額御前は実在したとされていますが、果たして巴御前はどうだったのでしょうか。巴御前は実在しない説について考察します。

平家物語「木曾の最後」で描かれる巴御前

 巴は『平家物語』の「木曾の最期」の章段で登場します。治承4(1180)年9月7日、信濃の木曾で挙兵した義仲は、巴御前を「便女」として連れていました。便女とは文字通り、便利な女。武将の身の回りの世話をする役割で、その世話の中には性行為も含まれていたといいます。

『平家物語』で描かれる巴御前は、「色白いろしろ髪長かみながく、容顔ようがんまことにすぐれたり」と容姿端麗。「ものもってはおににもかみにもあはうどいふ一人いちにん当千たうぜんつはものなり」という強っ強の女武者。漫画『キングダム』で例えるなら羌瘣、いや、楊端和のようなイメージでしょうか。人気キャラランキングで確実に上位に選ばれそうな人物像がまた、巴御前は実在しない説に拍車をかけます。

 美しくて強い巴は、義仲軍が残り5騎になるまで追い詰められてもなお生き残っていました。討ち死にを覚悟した義仲は、「をんななればいづちへもゆけ」と、巴御前に逃亡を促します。義仲は後世で、「最後の戦に女を連れてた奴www」ってスレを立てられるのが嫌だったんですね。巴は義仲と運命を共にする覚悟でしたが、義仲が「逃げろ逃げろ」とあまりにしつこく言うので、「はあ~誰か強い奴いない? 最後の戦いを義仲様に見せてあげるわ」と構えます。

 そこにやってきたのが御田八郎師重。武蔵国の力自慢として名を上げていた人物です。しかし巴は強すぎました。師重はあっけなく首をねじ切られ、ポイッと捨てられます。そして巴は武具を脱ぎ捨て、東国の方へと落ちていったのでした。

『平家物語』での記述はこれぐらいで、木曾義仲との関係性については「便女」であり、それ以上のことはわかりません。巴が登場するのは「木曾の最後」の章段のみで、東国の方へと落ちていった後にどうなったのかも不明です。

 ちなみに義仲はもう一人、山吹という女性も便女として連れていました。しかし、山吹は病のため京に残ったと記述されているのみ。物語に必要のない要素に思えますが、わざわざ山吹の名を出してきたということは、それなりの史実に基づいているのかもしれません。

『源平盛衰記』で描かれる巴御前

『平家物語』の異本の一つとされる『源平盛衰記』には、巴御前についてより詳しい記述があります。

『源平盛衰記』によると、巴は中原兼遠の娘。中原兼遠は木曾義仲の育て親です。義仲の実父は源義賢という人物でしたが、久寿2(1155)年の大蔵合戦で戦死。2歳にして孤児となった義仲を引き取ったのが中原兼遠でした。

 中原兼遠には、樋口兼光、今井兼平という二人の息子もいました。つまり、この二人は巴御前の兄弟。義仲とは血がつながっていませんが、同じ乳母のもとで育ち、切磋琢磨しながら武芸を磨いていきました。

 大人になった巴は、義仲の妾となります。妾というのは正式な妻ではありません。平安時代は法律的には一夫一妻制。妾はよくいえば内縁の妻、はっきりといってしまえば都合のいい愛人。便利な女、つまり、便女みたいなものです。中原兼遠が実の娘を妾として差し出したことには疑問が残ります。

『平家物語』では東国へ落ちていった後の消息が不明ですが、『源平盛衰記』には巴のその後が描かれています。落ち延びた先で捕まってしまい、鎌倉で死罪を宣告されます。しかし、和田義盛という人物が「巴と結婚して、強い子を生みたい」と告白。巴は和田義盛の妻となり、一人の息子を生みます。それが朝比奈義秀とされているのですが、史実では朝比奈義秀の生年は安元2(1176)年。義仲が没した時点で既に9歳であり、つじつまが合いません。

 実は、これと同じような話が、鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡』にあります。「板額御前」という豪傑の女武将の話がそっくりなのですが、そういった話を巴に当てはめて盛り込みながら、物語が面白くなるように脚色していったのかもしれません。

巴御前は実在したのか?

 結局のところ、巴御前が実在したのかどうかはわかりません。ただ、板額御前の話があるように、強く美しい女武将が存在したことは、当時としても決して珍しいことではなかったようです。巴の人物像があまりにスーパーウーマン過ぎるのでフィクションっぽく思えてしまいますが、いつの時代も選ばれし者というのがいるもの。頭も良くて運動神経も良くて顔もいいって人、意外と周りにいませんか? 私の感覚では学校に一人ぐらいは「完璧な人」がいる気がします。そのため、巴御前のような人物がいたことは十分考えられると思います。

 私の考察では、巴は実在し、木曾義仲の最後の戦いにもついて行ったのだと思います。しかし最期は討ち死にしたか、捕らえられてムゴい死に方をしたのではないでしょうか。歴史というのは勝者によって作られる物語です。勝者である鎌倉幕府にとって都合が悪い、人気が落ちてしまいそうなエピソードは葬られることでしょう。『吾妻鏡』に巴の記述がなく、板額御前のストーリーが掲載されているのは、何らかの意図があったのではないでしょうか。実は本当に実在したのは巴御前で、板額御前が創作だったということもあり得ると思っています。