福岡県京都郡みやこ町の観光スポット、「胸の観音」。近くで別用を済ませたついでに寄ってみたのですが、素晴らしいパワースポットでとても”ついで”に行くようなところではありませんでした。特にスゴいと感じたのが大木のパワー。手を当てると木の脈動が伝わり、身体が浄化されていくのを実感できるほどでした。
東九州自動車道「行橋IC」より車で約20分。胸の観音への行き方、見どころ、由来をご紹介しますので、ぜひ行ってみてくださいね♪
胸の観音への行き方
基本情報
住所:〒824-0822 福岡県京都郡みやこ町勝山黒田3286
電話番号:0930-32-2512
アクセス
東九州自動車道「行橋IC」を降りて約20分。行橋ICからの距離は5kmほどですが、約1.5kmの参道がとても細い山道で、離合地点も少なく運転が難しいです。私はたまたま対向車が来なかったので良かったものの、離合地点までバックできる自信がありません(本当に良かった⋯⋯)。運転に自信のない方はタクシーを利用されるのがオススメです。この日もタクシーで参拝されている方が一組いましたよ。
駐車場
駐車場はとても広く、約50台停められるそうです。私が到着した時は、他に2台の車が停まっていました。細い参道が難所ではありますが、他の車と離合する可能性は少ないのかもしれません。
所要時間は約8分?すぐ着くと思っていたけれど⋯⋯
車を降りて、歩いて胸の観音寺を目指します。看板には胸の観音寺まで約300m、徒歩約8~10分位との案内。すぐに着きそうだなと思い、水筒も持たずに歩き始めました。が、私はこの後、衝撃的な看板を目にします。
胸の観音寺までの参道は2本あり、行きは駐車場前の参道から登りました。入口には杖が用意されていますが、すぐ着くと思っていたのでスルー。スマホだけポケットに入れて、手ぶらで向かいました。
杉林が心地よい。お寺や神社の参道ってどうしてこうも気持ち良いのでしょう。パワーを感じざるを得ません。
ちょっと進むと階段があります。これを登りきれば着くのかな? 楽勝楽勝♪
階段を登りきりました! 上から見下ろすと結構登ったことがわかります。思ったより急な階段で足が痛い⋯⋯。ですがもう8分ぐらい歩いたので、もう着くはず♪ 手すりが赤い道はもう一つの参道。こちらの方が坂が緩やかで楽そうです。帰りはこっちの道を歩こうと思います。
階段を登りきり、ちょっと進むと小屋があります。横に原付バイクが停まっていて、若干の生活感がただよう小屋。鴨長明の「方丈の庵」のようです。壁にかけてある看板には⋯⋯(ん? 観音寺本堂まで徒歩8分? 見間違いだろうか⋯⋯)
もっと近づいて看板を見てみます。観音寺本堂まで徒歩8分、完全にそうとしか読めません。駐車場にあった徒歩約8~10分位というのはなんだったのだろうか⋯⋯。ここまで徒歩0~2分なのか、いや、そんなことはあるまい。実際のところ、もう10分は経っている。でも過ぎてしまったことはどうでもいい。問題はここからだ。本当にあと徒歩8分で着くのだろうか。ここまで10分かかった道のりが、胸の観音寺側の時間間隔ではせいぜい2分。つまり、時間の進み方が5倍違うということだ。となればこの徒歩8分とは、実際には徒歩40分のことではないのか! などど心の中でぶつぶつ唱えながら先を見ると⋯⋯。
どう考えても徒歩8分じゃない! 水筒を持ってこなかったこと、入口で杖を取らなかったことを後悔しました。このブログを読んでくださっている皆さまは、十分に準備して参拝してくださいね。
階段をひたすら登ってやっと到着! 参拝入口から、トータルで25分は歩いたでしょうか。徒歩8分というのは嘘でしたけど(笑)、ちょうど良いウォーキングコースでした。
胸の観音の見どころ
本堂
巨石
大木
鐘撞
景色
胸の観音の由来
今を去る千年の昔、行橋延永の里に一人の長者がおりました。人びとは「延永の長者」と呼んでいましたが、この長者には弥生(やよい)、五月(さつき)、早苗(さなえ)という三人の娘がいまして、いづれも容貌うるわしく、特に末娘の早苗姫は信心厚く、観音様に深く帰依しておりました。
延永の長者の持田は「表千町、裏千町」といわれる程広大なものでしたが乗仁帝の御代に築かれた小松が池(現在勝山町池田区にあり)の水により、あますところなくうるおされていました。
この小松が池は七尾七谷にわたる大池で、当時は池畔は鬱蒼たる森にかこまれて昼なお暗く、そのうえ池底には龍神の大蛇が住み、里人だれ一人として怖れて近づくものもありませんでした。
ある年の晩春、大旱バツで、長者の持田はもちろん、付近全部まったく田植ができなくなりました。
延永の長者はおどろきあわてて、小松が池のほとり、龍が谷にゆき、池中の龍神にしきりに雨を乞い、「もし雨を降らしたまわらば、わが三人の姫のうち一人を差上げます」と誓いました。
長者が祈りを終えて帰途につきますと、小松が池に龍巻が起り、一天にわかにかき曇って、然と豪雨が降りはじめ、たちまち数千町歩の田地をうるおしました。
かくて延永の長者の持田をはじめ付近一帯は田植が出来ましたが、長者は龍神への約束を果たさねばなりません。この時、末娘の早苗姫が、困り果てた長者の前に出て、「人柱のお役目は私がひきうけましょう」といい、乳母を伴い、百姓たちに見立てられ、(現在「見立」という部落あり)小松が池に向い、池のほとりに柵をつくり、柵内に端座し、香を焚き、龍神の現れるのを待ちました。ところが、案にたがわず、池中に荒波が立ち、鏡のようにランランと眼を光らせた大蛇が姿を現わし、姫に襲いかかろうとしました。
この時姫は、懐中より観音経の経巻を取り出し読誦をはじめ、一巻を読み終るごとに木綿針でそれを綴じ、池の中に投げ入れること八たびに及びますと、経巻を呑みました大蛇は観音経の法力と針の痛みに耐えかねて斃れ死にました。
早苗姫は乳母に促がされて帰途につきましたが、鹿が峯の山頂(現在「胸の観音」の祀られている所)に差しかかると、にわかに胸の痛みを覚え、乳母の懸命の手当にもかかわらず、次第に力が尽き果てゆく有様です。そしていよいよ臨終に及びますと早苗姫は「わたしは観音のお力によって救われ、いままたその来迎をうけて仏となります。向後わたしを念じる者は万病万難を免がれるでありましょう。」との一言を残して静かにこの世を去りました。
里人は、その慈悲に満ちた霊を祀るために観音像を刻み、岩窟の中に安置し、「胸の観音寺」と称えて信仰し今日に及んでおります。又奥の院には早苗姫と因縁浅からぬ龍神をお祀りした洞があります。
なお由来に因んだ地名としてここより西四00米の山麓に姫が村人から見立てらりし見立部落あり。更に西約四00米に池田部落(往時の池底)あり、その山裏には現在小松が池という小池がある。又北約三00米の山麓に姫に末期の水をあたえたと云われる袂清水があります。