内裏は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、なかなか様変はりて、優なるかたも侍り。
この一文は鴨長明が『方丈記』の中で、平清盛の暴挙ともいわれる「福原遷都」をディスったものです。新しい都として定められた福原の地は、山と海に挟まれて平地が少なく、平安京を遷すにはとても土地が足りませんでした。実際に現地へ視察に行った長明は、山の中に建造された内裏(皇居)を見て、「あの木の丸殿もこんな感じだったのかな。逆に風変わりで良いかも」と皮肉っているんですね。
さて、その「木の丸殿」の跡地とされる場所が福岡県朝倉市にあるというので、福岡県民の地の利を生かして訪問してきました。福岡市内から車で約1時間。美しい耳納連山を背景に、筑後川が雄大に流れ、のどかな田園風景が広がるその場所は、鴨長明ファンでなくともオススメのドライブスポット。近くに「賀茂神社」を見つけましたので、そこもついでに寄ってみ♪
オススメのお出かけスポットかも♪
木の丸殿とは?
木の丸殿とは、木材を丸太のまま加工せずに造った質素な宮殿という意味です。つまり、特定の宮殿を指す固有名詞ではないのですが、鴨長明が『方丈記』で言及した木の丸殿は、現在の福岡県朝倉市にあったものだとされています。その根拠は、中大兄皇子(天智天皇)が詠んだとされる歌の存在です。
朝倉や木の丸殿に我がをれば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ
この歌は、鎌倉時代初期に成立した『新古今和歌集』に収録されています。鴨長明は歌人としても活躍し、なんと言っても『新古今和歌集』の編纂に関わっていた人物。「木の丸殿」という言葉は、この歌から拝借したと考えるのが妥当でしょう。でもどうして朝倉に木の丸殿があり、中大兄皇子はこのような歌を詠んだのでしょうか。
朝鮮出兵のために突貫で造営された説
6世紀から7世紀の朝鮮半島は、高句麗・新羅・百済の三国に分かれていました。日本(倭国)は百済と友好的な関係を築いていましたが、660年に新羅と唐の連合軍によって百済が滅亡。百済は倭国に助けを求め、中大兄皇子がこれを承諾します。661年1月6日、中大兄皇子は百済を救済するため、母親の斉明天皇と共に西へ出征。同年5月9日、斉明天皇は「朝倉橘広庭宮」へと遷られました。
安良岡康作氏の『方丈記』解説本では、この朝倉橘広庭宮が木の丸殿だとされており、私もそうだと思っていました。朝倉橘広庭宮はもともとあった宮殿ではなく、朝鮮へ出兵することが決まってから突貫で建てられたという説です。しかし、現地の説は違います。
中大兄皇子が喪に服すために造った説
661年5月9日に朝倉橘広庭宮へと遷られた斉明天皇は、わずか75日後の同年7月24日、68歳で崩御します。『日本書紀』には、崩御から7日後の8月1日、中大兄皇子が斉明天皇の御遺骸を磐瀬宮に移したとの記述があります。しかし、現地にの説では、8月1日に中大兄皇子が木皮がついたままの丸木で庵を造り、12日間喪に服されたといわれているのです。木の丸殿跡にある案内看板には、次のように記されています。
由来
西暦661年5月9日、百済救済のために朝倉橘広庭宮に遷られた斉明天皇は、病気と長旅の疲労のため同年7月24日、御歳68歳で崩御された。7日後の8月1日、皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)は、母の御遺骸を一時朝倉山上(御陵山)に御殯葬になり、御陵山の山腹(現在の八幡宮境内)に木皮のついたままの丸木の柱を立て、板を敷き、芦の簾を掛け、苫をふき、あばらなる屋に、塊を枕にし、1日を1ヶ月に代えて12日間喪に服されたといわれ、この地は「木の丸殿」「黒木の御所」と呼ばれるようになった。
喪に服された皇太子は「朝倉や木の丸殿に我居れば名乗りをしつつ行くは誰が子ぞ」という歌を詠まれた。また、筑後川のほとりで名月を観賞され、心の痛みを癒されたと伝えられている。(月見の石)
中大兄皇子が詠んだとされる歌については、別の案内看板にこう書かれています。
朝倉や木の丸殿に我居れば名乗りをしつつ行くは誰が子ぞ
この歌は、西暦661年8月1日、皇太子中大兄皇子が母(斉明天皇)の御遺骸を一時この朝倉山に仮安置し、山腹の「木の丸殿」で喪に服されていた時に詠まれた歌で、朝倉の関(名乗の関)を通る子のことを思って詠まれている。その後、藤原定家によって新古今和歌集に編集された。
(内容)
朝倉の木の丸殿に居ると、御殿の下の街道にある朝倉の関(名乗の関)で自分の名を名乗りながら、許されて関を通っていく子がいるが、一体、どこの誰の子であろうか。子供で旅をしているが、可哀想なことだ。
【考察】『方丈記』の木の丸殿はどっち?
朝鮮出兵という正当な理由があったとは言え、斉明天皇が「朝倉橘広庭宮」に遷られたのは、急に皇居が遷されたという点では福原遷都と同じです。鴨長明の時代には、まだ数え年3歳の安徳天皇が新都福原に遷されました。その皇居を見て思い浮かべたのは、喪に服すための庵ではなく、天皇が住むための朝倉橘広庭宮だったのではないでしょうか。