鴨長明の代表作は?鴨長明集・無名抄・発心集・方丈記の概要

 鴨長明の代表作といえば、やはり『方丈記』が一番に浮かびますよね。というよりもむしろ、『方丈記』以外の作品を知らないという方も少なくないのではないでしょうか。

 平安時代から鎌倉時代へと移り変わる激動の世を生きた長明は、当時においては歌人として有名な人物でした。最初に出した作品は『鴨長明集』という自撰和歌集で、晩年には歌論書『無名抄』を書いています。出家して仏道修行にも励んでいた長明は、『発心集』という仏教説話集を執筆。一般的に鴨長明の代表作といえば、『無名抄』、『発心集』、そして『方丈記』の3作品があげられます。

 その他に『伊勢記』という伊勢修行の旅行記を記したとされていますが、こちらは疑問点が多く、長明の作品かどうかもはっきりしていません。この記事では鴨長明が残した作品について、それぞれの成立年代や概要をまとめます。

自撰和歌集『鴨長明集』

『鴨長明集』は養和元(1181)年頃、長明が20代後半の頃に成立したとされる自撰和歌集です。春11首、夏11首、秋22首、冬17首、恋24首、雑20首の計105首が収録されています。特徴は幼な子を見て詠んだ歌が多いこと。『方丈記』に「この身のありさま、ともなふべき人もなく」とあり、晩年の長明は独り身であったようですが、当時は結婚をして子供を持ち、その子供を亡くしてしまったのかもしれません。

 養和元年は飢饉が発生し始めた年であり、平安京内で多数の餓死者が出ていました。その惨状は『方丈記』にも生々しく描かれています。災害に加えて平氏と源氏の争いも激化し、都は荒れ果てるばかり。そこで和歌の力で神を動かし、天下の太平を願おうという動きが、上賀茂神社が中心となって起こります。同社は当時活躍していた36人の歌人に、100首ほどの和歌を求めました。長明はその36人の1人に選ばれて、『鴨長明集』を奉納したのではないかと考えられています。

 その後の長明は、文治4(1188)年に成立した『千載和歌集』に1首入集し、元久2(1205)年に成立したとされる『新古今和歌集』には10首が入集。歌人としてめざましい功績を残しました。そして晩年には歌論書、『無名抄』を執筆します。

歌論書『無名抄』

『無名抄』は和歌の読み方や歌会での振る舞いなどについて、心得や作法を論じる歌論書です。ただ、教科書的なゴリゴリの歌論書ではなく、長明が見聞きした歌壇での話や自身の体験、古歌にまつわる名所や歌人の逸話など、和歌をテーマにしたエッセイのような印象で、堅苦しさはありません。

 成立時期については、『方丈記』の前とも後ともいわれています。「関の清水」という話に「建暦の初めの十月廿日あまり」という記述があることから、建暦元(1211)年10月20日以降と考える説が有力のようです。一方で同年9月8日に三位に昇進した藤原定家が、「冷泉中将」や「定家朝臣」と記されていることから、建暦元(1211)年9月8日以前とする説もあります。いずれにしても建暦2(1212)年、弥生のつごもりころに成立した『方丈記』よりは前であろうと考える研究者が多いようです。

仏教説話集『発心集』

『発心集』は仏教に関する説話を集めた作品です。「発心」とは仏教用語で、「発菩提心」の略語。菩提(悟り)の心を起こすことを意味します。『発心集』の序文には、「善の心は野生の鹿のようにすぐ離れていくのに、悪の心は家にいる犬のようにつきまとう。この愚かな心を鎮めるには、仏の教えにすがるしかない」ということが記されています。煩悩にまみれて揺れ動く心をどうしようか、というのが『発心集』のテーマです。

 成立時期についてはこちらもはっきりわかっていません。『発心集』の巻4-8「ある人、臨終にもの言はざる遺恨事」の話に臨終のあり方が描かれており、最期を意識する晩年に編まれたことは間違いなさそうです。長明は死の直前、藤原長親に『月講式』の作成を依頼しています。長明がその完成を見ることなく亡くなっていることから、死の直前まで『発心集』を執筆していたのかも知れません。現在ある『発心集』はすべてを長明が記したものではなく、後世に一部付け加えられたとする説もあります。

随筆『方丈記』

 鴨長明の代表作を一つだけあげるなら、やはり『方丈記』で異論はないでしょう。『枕草子』、『徒然草』と並んで日本三大随筆の一つとされており、中学・高校の古文でもよく取りあげられますので、誰もが『方丈記』という作品名は聞いたことがあると思います。

『方丈記』は一般的に随筆作品とされておりますが、前半は長明が経験した災厄の描写、後半は生きづらい世の生き方を問う内容です。もし現代に『方丈記』が出版されたとしたら、エッセイではなくビジネス書のコーナーに並ぶのではないでしょうか。少なくとも『枕草子』や『徒然草』とはちょっとテイストの違う作品です。

 成立年代については、『方丈記』の最後の文に「時に、建暦の二年、弥生のつごもりころ、桑門の蓮胤、外山の庵にして、これをしるす」とあり、建暦2(1212)年弥生(3月)の成立と素直に受け取っていいでしょう。鴨長明の生年については1155年頃とも、1153年頃ともいわれておりはっきりしませんが、没年は建保4(1216)年閏6月8日とされています。これは上述の月講式の成立が建保4年7月13日であり、その式分に「別れを告げて五七日(35日)」とあり、そこから逆算して得た日付です。享年は62歳、または64歳。晩年に『無名抄』、『発心集』、そして『方丈記』を執筆した長明は、心安らかに眠れたのでしょうか。決してそうではなく、最期まで煩悩が拭えなかったのかもしれませんが、今でもこうして読み継がれ、私のようなファンがいることが少しでも慰めになるといいなと思います。

旅行記『伊勢記』

 鴨長明はもう一つ、『伊勢記』という旅行記を書いていたともいわれています。長明が伊勢に修行に出ていたことは、『御裳濯和歌集』に次の歌が載っていることから事実ではあるようです。

  むぐらはふやどだに秋はさびしきをいくへかどつるみねの白雲 蓮胤法師

 蓮胤法師とあるので出家後のこと。『方丈記』によると50歳の春を迎えて出家したとありますので、1203年以降に詠まれたものと思われます。しかし『伊勢記』にある旅行の次期については、文治2(1186)年または建久元(1190)年と指摘されており、長明がまだ出家する前です。この頃にも伊勢に出ていたとも考えられなくもないのですが、『方丈記』にも『無名抄』にも『発心集』にも伊勢に関する記述がありません。そのため、『伊勢記』は長明の作品ではなく、誰か別の人が書いた日記ではないかとも考えられています。