鴨長明はどんな人?生きづらい人に知ってほしい人生と生き方

「生きづらい」
「もう人と関わりたくない」
「人生こんなはずじゃなかった」

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800年以上前の時代を生きた鴨長明も、こんな気持ちだったかも?

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 京都の世界遺産、「下鴨神社」の神官の子として生まれた鴨長明。父親は神官の最高位である正禰宜惣官しょうねぎそうかんに上り詰めた人物で、長明はとんでもなく裕福な家庭で育ちました。住まいは豪邸でしたが、晩年を過ごしたのは約5畳の山小屋。人生が思い通りにならず、世の中に生きづらさを抱えていた長明は、心の安らぎを求めて都を離れたのでした。

 現代も生きづらい社会です。うつ病を患い、人間関係に疲れてしまった私は、鴨長明の生き方にとても共感しました。今、世の中が生きづらいと感じている人にぜひ知ってほしい、鴨長明の人生と生き方をポップに紹介します♪

鴨長明の人生

スーパーお坊っちゃま爆誕

 鴨長明が生まれたのは久寿2(1155)年頃。下鴨神社の御曹司として、とっても裕福な家庭で育ちました。当時の下鴨神社は、70か所以上もの社領を持っていた巨大組織。父親の長継はそのトップであり、長明はレベチのスーパーお坊っちゃまだったのです。朝廷との関係も深く、天皇の妻であった妹子内親王(後の高松院)により、長明はわずか7歳で「従五位下」という上級国民の証を授けられます。

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子供の頃は明るい未来しか見えていなかったかも

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父親の死をきっかけに人生が暗転

 長明が18歳のころ、父長継が没します。長継の跡を継いだのは、遠戚の鴨祐季。長明は父の跡を継ぐことができませんでした。しかし、この人事はあくまで下鴨神社の慣例ともいえる流れであり、長明に対する悪意があったわけではありません。そもそも長明は次男であり、長守という兄もいました。要するに、長明が跡を継ぐ可能性はもともと低かったのです。しかしながら、長明にとっては父の死が相当ショックだったようで、次の歌を詠んでいます。

 住みわびぬいざさは越えん死出の山さてだに親の跡を踏むべく

「住みわびぬ」は「生きづらい」、「いざさは越えん死出の山」は「いっそのこと死んでしまおう」という意味です。父親を失うのは確かに悲しいことではありますが、18歳というのは現代においても成人年齢。さすがに大げさ過ぎると思うのは私だけでしょうか? いずれにしても、長明にとって父親の後ろ盾はかなり大きかったようで、父の死をきっかけに長明は落ちぶれていきます。

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歌の才能はあったかも

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恋の歌で地雷を踏みそうになる

 長明が父の跡を継ぐことができなかった一番の理由は、本業である神社の仕事をサボっていたからです。長明は本業そっちのけで、和歌に打ち込んでいました。

 父の死から約3年後、長明が21歳のころに、高松院が主催する歌合に参加する機会がありました。前述したように高松院は、わずか7歳の長明に「従五位下」を授けてくれた皇室の女性です。歌のテーマは「恋」。ここで長明は、地雷を踏みそうになります。

 人知れぬ涙の川の瀬を早み崩れにけりな人目つつみは

「人知れず流す涙の川の流れが早いので、密かに抱いていた恋心を人目から隠してくれていた堤防が崩れてしまった」という歌を出そうとしたところ、長明に歌を教えていた先生に「これはヤバい」と止められてしまいます。その理由は、「崩れ」という言葉が「崩御(死)」を連想させるから。確かに不吉です。

 でもそれ以上にヤバいのは、歌の内容でしょう。長明は高松院本人に向けて、この歌を届けようとしていたのではないでしょうか。当時の高松院は35歳。長明が7歳のころから良くしてくれた女性です。密かに「女」を感じていた可能性は否めません。それはさておき、高松院はその翌年に亡くなってしまいます。もし先生に止められていなかったら、高松院の死が長明の歌のせいにされていたかもしれません。

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高松院は密通疑惑もあったし魔性の女だったかも

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仕事しなさ過ぎて家を追い出される

 長明は和歌だけでなく、琵琶にもハマっていました。プロ並みの腕前だったそうですから、相当練習していたのでしょう。神社の仕事をほったらかして趣味三昧とは、うらやましい限りです。しかし、いつまでもそんな身分ではいられません。とうとう愛想を尽かされてしまったのか、長明は家を追い出されてしまいます。30歳を過ぎたころでした。

 住まいを失った長明は、新しい家を自分で建てました。『方丈記』には「ありし住まひにならぶるに、十分が一なり」とありますが、10分の1でもかなり大きな家であったと思われます。というのも、「方丈の庵」はさらにその100分の1に及ばないとか。「方丈の庵」は約5畳(約9㎡)の広さですので、単純計算すると約900㎡(約272坪)もの広さ。はっきり言って大豪邸ですよね。門がないとか、風が吹くと危ないとか、河原の近くで水害のリスクもあるとかぶつぶつ言ってますが、マジどうでもいいです。庶民の家に比べたらよっぽどマシ。だいたい、庶民は生きていくだけで精一杯なのに、仕事もせずに好きなことをやれるなんて、恵まれた環境に感謝しろよと。なんかちょっとイライラしてきました(笑)。

 ちなみに、この約900㎡の家が「ありし住まひ」の10分の1ですから、もともと住んでいた家は約9,000㎡(約2,722坪)もの広さがあったことになります。「さすがにそれは誇張だろ」と言いたいところですが、それがそうでもないのです。当時の平安京は、1区画が1町四方で割られていました。1町は約109mですので、1町四方は約11,881㎡(約3,594坪)。貴族の邸宅は1区画をまるまる占めていたことも珍しくなく、下鴨神社の御曹司であった長明がそれぐらいの大豪邸に住んでいたとしても、まったく不思議ではないのです。

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ワイのマイホームは30坪もないかも⋯⋯

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心機一転仕事に励むも無念の出家

 相変わらず長明は和歌と琵琶に打ち込むばかりで、神社の仕事はろくにしていなかったようです。そのため、普通に働いていれば上がる位も、7歳の時に授かった「従五位下」のままでした。しかし、そんな長明にも日の目を見る機会が訪れます。なんと後鳥羽上皇から声がかかり、『新古今和歌集』を編纂する「寄人」に大抜擢されたのです。寄人に選ばれたということは、一流の歌人として認められたということ。47歳にしてようやく華やかな職をつかんだ長明は、嬉しさのあまり昼も夜も仕事に励みました。そしてその働きぶりが認められ、ついに念願であった禰宜職のオファーが舞い込みます。下鴨神社の摂社である河合神社の禰宜職に、後鳥羽上皇が長明を推してくれたのです。

 喜びの涙せきとめがたき気色なり

 涙が止まらなくなるほど嬉しかった長明でしたが、そうはならないのが長明の人生。遠戚であり、下鴨神社の禰宜であった鴨祐兼が、「ろくに社務をこなしてこなかった人間に禰宜が務まるか」と反対してきたのです。長明は「クソが!」と言ったに違いありませんが、祐兼の言い分はもっともで、他に返す言葉がありません。後鳥羽上皇も引かざるを得ず、祐兼の息子が河合神社の禰宜となりました。何もかもが嫌になった長明は、寄人の仕事もバックレて出家。大原に隠居しました。

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上皇の推薦をもひっくり返せるほど強い禰宜とか関わりたくないかも

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心の安らぎを求めて方丈の庵を製作

 長明は大原で5年の月日を過ごしました。当時の大原は、貴族に人気の隠棲地。結局、都と同じような面倒くさい人間関係があったのでしょう。長明にとって居心地の良い場所ではなかったようで、日野山への引っ越しを決意します。その時に造ったのが、「方丈の庵」です。方丈とは、1丈四方のこと。1丈は約3mですので、方丈は約9㎡(約5畳)。狭いながらも寝床があり、仏道の修行や琵琶に打ち込めるスペースもあり、一人で住むには十分でした。しかも、「方丈の庵」は簡単に解体できて、車2台で運ぶことができました。嫌なことがあったらすぐ引っ越せるようにするためです。しかし、長明は日野山での暮らしをたいそう気に入ったようで、それ以上引っ越すことはありませんでした。

 日野山での暮らしぶりは、『方丈記』にいきいきとした文体で描かれています。誰にも邪魔されることなく、好きな時に好きなことをできる生活。仏道の修行をサボっても、「あいつクソだな」とか言う人はいません。人と会わなければ、人と比べることもなく、自分が恥ずかしいと思うこともありません。長明はようやく、心安らぐ生活を手に入れたのでした。

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ワイもこんな暮らしが理想かも

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本当は都でうまくやりたかった?

 長明は完全に俗世を捨てられたわけではありませんでした。『方丈記』のラストで、「汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり(見た目は僧侶っぽいけど、心は煩悩まみれやん)」と、自省の弁を述べています。出家したとはいえ、仏道の修行は中途半端。都を離れたとはいえ、日野山は都からそう遠くない場所。実際、都へ出かけることもありましたし、「何かのついで」と言いながら都の様子を探っていました。本当は、都でうまくやりたかったのではないでしょうか。父の跡を継いで、人とうまく交流して、みんなから立派な人物だと言われるような人になりたかったのではないでしょうか。

 長明は1216年、62歳で生涯を閉じました。都への未練が残ったとしても、心安らぐ生活を見つけられた長明の人生は成功だったと思います。800年以上たった今も『方丈記』が読み伝えられていることが何よりの証でしょう。

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長明のファンになったかも

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