佐賀県唐津市に鎮座する鏡神社。西暦200年頃に創立された歴史ある神社で、『源氏物語』の第22帖「玉鬘」の巻で詠まれた歌に登場します。玉鬘はさまざまな事情があって、3歳の頃に京から筑紫国へと引っ越してきた姫君。そこで育った玉鬘は美しく成長し、何人もの男たちから求婚されていました。中でも特に強引だったのが、肥後の豪族であった「大夫監」。
君にもし心違はば松浦なる鏡の神にかけて誓はむ
という歌を贈ります。この歌に詠まれている「鏡の神」が、鏡神社のことです。大夫監は「我ながら上出来」と自信満々でしたが、果たして恋の行方やいかに。この歌の意味や大夫監の恋の結末、玉鬘が幼少期に筑紫国へ下った事情については後ほど紹介します。
鏡神社は紫式部自身が詠んだ歌にも登場します。紫式部には「姉君」、「中の君」と呼び合うほど仲の良い友達がいましたが、その友達は父親の転勤で京から筑紫国へと下向。紫式部は遠く離れた友達に宛てて、次の歌を詠みました。
あひ見むと思ふ心は松浦なる鏡の神や空に見るらむ
このように『源氏物語』の中だけでなく、紫式部その人とも縁がある鏡神社。祀られているのは神宮皇后で、子宝安産の神様ともされています。境内の中にある御神木はまるで妊婦さんのようで、御利益を感じざるを得ません。鏡神社にまつわる源氏物語と紫式部のエピソード、御由緒や行き方を紹介します♪
福岡市内から電車で行くのも楽しいかも♪
鏡神社への行き方
福岡方面からは「二丈鹿家IC」で降りるのがオススメ
鏡神社は西九州自動車道「唐津IC」が最寄りのインターですが、福岡方面から行く際は「二丈鹿家IC」で降りた方が距離が近いです。鏡神社の公式サイトによると、カーナビでルート検索する際に「佐賀県唐津市鏡1824-2」で住所検索するといいとのこと。鏡神社の住所「佐賀県唐津市鏡1827」、または電話番号「0955-77-3151」で検索すると、カーナビの機種によっては鏡神社の裏手に案内されてしまうことがあるそうです。私のナビはきちんと鏡神社の表側に案内してくれたのですが、駐車場を通り過ぎてしまい、結局神社の裏手を回って戻ることになってしまいました。神社の裏手は道が狭く、結構な遠回りをすることになってしまいますのでご注意ください。
駐車場の入口は「古代の森会館前」の交差点が目印
駐車場は鏡神社の参道入口から少し離れた場所にあります。上述した通り、私は駐車場の入口に気づかず通り過ぎてしまいました。目印は「古代の森会館前」の交差点。角に駐車場がありますが、駐車場入口に看板がないのでわかりにくいです。通り過ぎてしまうと、戻ってくるまでに10分ぐらいかかります。以下の写真を参考に、駐車場を見逃さないようお気をつけください。
JR筑肥線「虹ノ松原駅」が最寄り駅です。JR筑肥線は福岡市地下鉄と直通運転しておりますので、福岡市内から電車で移動するのもありですよ。Googleマップによると、虹ノ松原駅から鏡神社までの距離は約1.6km、徒歩で約21分。鏡神社の公式サイトによると、タクシーを利用する場合は隣の「東唐津駅」が便利だそうです。虹ノ松原駅ではタクシーがつかまりにくいのかもしれません。
鏡神社が『源氏物語』ゆかりの地である理由
君にもし心違はば松浦なる鏡の神にかけて誓はむ
この歌は『源氏物語』の第22帖「玉鬘」の巻で、玉鬘に求婚していた肥後の豪族「大夫監」が詠んだ歌です。
玉鬘の母の名は夕顔。頭中将の側室となり、玉鬘を出産しますが、頭中将の正妻が夕顔に嫉妬。正妻から脅された夕顔は、恐くなって姿を隠します。その時に出逢ったのが、17歳の光源氏。お互いに素性を明かさぬまま愛人関係となりますが、夕顔は光源氏との密会中に亡くなってしまいます。この事件は秘密裏に処理され、夕顔は行方不明ということに。玉鬘の乳母は夕顔の行方を探しますが、どうにも見つからないので玉鬘を引き取り、夫の転勤にともない、3歳の玉鬘を連れて筑紫国へと下りました。
それから18年。美しく成長した21歳の玉鬘は、多くの青年からアプローチされていました。しかし、ここは筑紫国という田舎。品のない男たちばかりです。中でも特に強引だったのが、大夫監という肥後の豪族。もはやストーカーと化し、脅しをかけながら玉鬘に求婚していた大夫監は、乳母の前で次の歌を詠みます。
君にもし心違はば松浦なる鏡の神にかけて誓はむ
「もし玉鬘に対して心変わりするようなことがあるならば、(どんな神罰をも受けようと)松浦の鏡の神にかけて誓おう」という内容で、大夫監は「我ながら上出来」と自信満々。しかし乳母は「幼稚な歌」と一蹴。次の歌を返します。
年を経て祈る心の違ひなば鏡の神をつらしとや見む
「玉鬘の幸せを長年祈っている私の願いが叶わなかったら、鏡の神を恨めしいと思うでしょう」という内容です。乳母は京に戻って、玉鬘に高貴な男性と結婚して幸せになってほしいと願っていました。その願いを鏡の神、つまり鏡神社にかけていたので、それが叶わなかったら鏡神社を非情な神だと思ってしまう、ということです。
しかし、その意味を理解できなかった大夫監は、「は? なんちかキサン?」と乳母に詰め寄ります。恐怖で血の気が引く思いをした乳母は、大夫監から逃げるように玉鬘と京へ戻っていったのでした。
紫式部自身も詠んだ鏡神社
あひ見むと思ふ心は松浦なる鏡の神や空に見るらむ
この歌は紫式部自身が詠んだ歌で、筑紫国に住む友人に贈った歌です。紫式部には「姉君」と呼んで慕っていた友達がいました。姉君の方は紫式部のことを「中の君(姉妹の中の2番目)」と呼び、お互いに仲良し。しかし、二人は父の転勤にともない離れ離れになってしまいました。
紫式部は越前国、姉君は筑紫国へと引っ越しますが、二人の友情が絶えることはなく、文通を続けていました。その時に「姉君に会いたいと待ち望んでいる私の心は、松浦の鏡の神様が空から見てくださっているでしょう」という歌を紫式部が贈ったのでした。そしてその翌年、姉君から次の返歌が届きます。
ゆきめぐりあふを松浦の鏡には誰をかけつつ祈るとか知る
「また巡り会える日を待っていると、松浦の鏡の神様に願いをかけています。誰のことを心にかけて祈っているのか知っているでしょう」と、中の君に会いたいという歌です。お互いに再会を待ち望んでいましたが、姉君は筑紫国で亡くなってしまい、京で再会する願いは叶いませんでした。
鏡神社の由来
由緒記
鎮座地:佐賀県唐津市鏡宮の原
神社名:鏡神社(旧県社)旧称、鏡宮、松浦宮、鏡尊廟、松浦廟宮、板櫃社
祭神:一の宮 息長足姫命(神功皇后)
二の宮 大宰少貳藤原廣嗣朝臣
創立:一ノ宮 仲哀天皇御宇(西曆二〇〇年頃)、二ノ宮 天平十七年(西曆七四五年)、楊柳観音菩薩(国指定重要文化財・明德二年)
由緒
一ノ宮、神功皇后三韓征伐の御時、松浦郡に至り、七面山(今鏡山)山頂に於て宝鏡を捧げて天神地祇を祭り、異国降伏を祈らせ給しが、その後、宝鏡霊光を発す。よって、御凱旋の際、その宝鏡を採り、自らに生霊をこめて、この社に鎮め給う。
二の宮、廣嗣朝臣僧玄昉等の奸人を除かんとして、兵を挙げしが、事成らずして松浦郡に薨ず。その後霊威しばしば顕れ災害頻りに起るをもって、肥前の国守吉備真備勅を請うて、鏡並びに無夗寺(今浜玉町大村神社)両所に廟を建立し、公の霊をば祭れり。時に天平勝宝二年、この宮創立の肇めなり。境内八町四方輪奐の美を極め、従って官庶の敬崇浅からず。史籍歌書等に載せられたるは少からず。中世草野大宮司と称し、武威を近郷に張り、所謂、草野氏をなせり。草野氏滅亡と共に、社運衰退したりといえども、唐津藩主、初代寺澤氏以来、歴代祈願社として尊崇せり。惜しむらくは明和七年一の宮炎上し、宝物旧記灰燼に帰し、詳細を知る由もなし。
祭典:神幸祭 四月九日
例祭 十月九日
境内:一万六千坪
社殿:一の宮本殿、明和八年唐津藩主水野忠任再建、昭和二十五年解体、昭和六十一年十月九日、神社氏子崇敬者一同により一の宮及び社務所再建
二の宮本殿、寛政二年唐津藩主水野忠鼎再建
宝物:国指定重要文化財、楊柳観音画像、廣嗣朝臣御鎧の他宝剣、経巻等十数点
氏子:唐津市鏡、原柏崎等、合計千五百戸
一ノ宮の由来
鏡神社は西暦200年頃、仲哀天皇の御代に創立された歴史ある神社です。一ノ宮に祀られているのは仲哀天皇の皇后であった神功皇后。『日本書紀』に息長足姫命の名で登場し、仲哀天皇が崩御した後に新羅・百済・高句麗を征服(三韓征伐)したとされる人物です。
神功皇后が新羅へ出兵する際、七面山の山頂で宝鏡を捧げて戦勝を祈願したところ、宝鏡が霊光を発するようになりました。三韓征伐に勝利して凱旋した神功皇后は、祖神が護ってくれたと喜び、宝鏡に自らの生霊をこめて鎮めたのが鏡神社の由来です。七面山は鏡山、周辺地域は鏡村と呼ばれるようになり、現在もその名が残っています。
子宝安産の神様
神功皇后は三韓征伐の最中、仲哀天皇との子どもを身ごもっていました。仲哀天皇の跡を継ぎ、第15代天皇となる応神天皇です。『日本書紀』では誉田天皇という名で登場します。
三韓征伐から凱旋した神功皇后は、鏡神社で激しい陣痛を起こしました。しかし、この地の湧き水を飲むとたちまちに回復。無事安産となり、宇美の地で誉田天皇を産んだことから、鏡神社は今に至るまで子宝安産の神としても崇められています。
境内の中に子宝安産の御神木があるのですが、これがまさに妊婦さんのよう。一見の価値ありです。
二ノ宮の由来
二ノ宮は天平17(745)年に創立され、天平勝宝2(西暦750)年に藤原広嗣が祀られました。藤原広嗣は二ノ宮に祀られる10年前、天平12(740)年に松浦の地で処刑された人物。処刑された理由は、朝廷への反乱を起こしたからです(藤原広嗣の乱)。
天平9(737)年、天然痘の流行により、当時政権を握っていた藤原四兄弟が相次いで亡くなりました。藤原四兄弟とは藤原不比等の息子たちで、藤原広嗣の父である藤原宇合もその一人でした。その後に政権を担ったのは、橘諸兄という人物。吉備真備、玄昉の二人をブレインとして迎え、藤原氏を排除していきました。藤原広嗣も大宰少弐に左遷され、強い不満を抱きます。そして吉備真備と玄昉の追放を求めて挙兵しますが、あえなく敗れてしまい、松浦で処刑されてしまったのです。
しかし、その後に都で災いが起こるようになり、広嗣の怨霊によるものではないかと噂されます。天平17(745)年、広嗣の政敵であった玄昉が筑紫観世音寺別当に左遷され、吉備真備も天平勝宝2(750)年に筑前国、次いで肥前国へと左遷。鏡神社の二ノ宮が創立され、藤原広嗣が祀られた年とちょうど一致しますね。そのため左遷ではなく、広嗣の怨霊を鎮めてくるよう勅命を受けたからではないかともいわれています。