養和の飢饉とは、養和元(1181)年から寿永元(1182)年にかけて、平安京を含む西日本一帯で発生した大飢饉のことです。『方丈記』の記述によれば、京都市中だけで死者42,300人。当時の京の人口は約10万人といわれていますので、半数近くの庶民が犠牲になりました。
金を軽くし、粟を重くす。
人々は食糧を得るために家財を片っ端から売り払おうとしますが、もはや金目のものに価値はなく、一日の命をつなぐのがやっと。飢饉に加えて疫病も発生し、人々は道端でバタバタと倒れていきました。市中には腐敗した死体の悪臭が充満。中には命尽きた母親の乳を吸いながら横たわる赤ん坊の姿も。養和の飢饉を目の当たりにした鴨長明は、当時のあまりに悲惨な光景を『方丈記』に克明に書き残しました。
戦中、戦後の日本もこんな感じだったかも⋯⋯
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方丈記「養和の飢饉」原文と現代語訳
また、養和のころとか、久しくなりておぼえず
また、養和のころとか、久しくなりておぼえず。二年が間、世の中飢渇して、あさましき事侍りき。或いは春、夏日照り、或いは秋、大風、洪水などよからぬ事どもうち続きて、五穀ことごとくならず。夏植うるいとなみありて、秋刈り、冬収むるぞめきはなし。
また、養和の頃であったろうか、だいぶ昔のこととなってしまい、はっきりと思い出せない。二年間にわたって、天地が飢饉となり、驚きあきれるほど悲惨なことがありました。ある年は春、夏と日照り、ある年は秋に大風、洪水など良くないことが切れ目なく続き、五穀はまったく実らない。夏に植え付けの作業はあっても、秋に刈り取り、冬に正倉へ収めるにぎわいはなかった。
- けかつ【飢渇】:飢えと渇き。飢饉。
- あさまし:驚きあきれるさまだ。ひどい。嘆かわしい。
- ごこく【五穀】:米・麦・粟・黍・豆。
- いとなみ【営み】:仕事。とくに、生活のための仕事。
- ぞめき【騒き】:うかれ騒ぐこと。にぎわうこと。
これによりて、国々の民、或いは地を捨てて境を出で
これによりて、国々の民、或は地を捨てて境を出で、或は家を忘れて山に住む。さまざまの御祈りはじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、さらにそのしるしなし。京のならひ、何わざにつけても、みなもとは田舍をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへん。念じわびつつ、さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目見立つる人なし。たまたま交ふるものは、金を軽くし、粟を重くす。乞食、路のほとりに多く、憂へ悲しむ声、耳に満てり。
この飢饉の影響で、諸国の民は、ある者は土地を捨てて国境を越え、ある者は家をそのままにして山に住む。さまざまなご祈祷がはじまり、格別な修法なども行われるも、まったくその効果がない。都の人々の生活は、何をするにも、物資の供給源は地方にこそ依存しているのに、その供給が途絶えて都に送られてくる物資がなければ、そうそう平静を装ってはいられないだろう。我慢できなくなると、さまざまな家財を片っぱしから捨てるように売り払おうとするけれども、まったく目をとめる人はいない。まれに物々交換に応じる者は、金目のものを軽く扱い、食糧を重宝する。乞食が道端にあふれ、嘆き悲しむ声がそこら中から聞こえてくる。
- なべてならず【並べてならず】:並みひととおりではない。格別だ。
- さらに【更に】:全然。まったく。
- しるし【験】:神仏の霊験。御利益。効果。
- のぼる【上る】:上京する。地方から都へ行く。
- さのみやは【然のみやは】:そうばかり⋯か、いや⋯でない。
- みさをつくる【操作る】:平気なふりをする。いつもと変わらぬふりをする。
- ねんじわぶ【念じ侘ぶ】:我慢しきれなくなる。
- めみたつ【目見立つ】:目をとめて見る。
前の年、かくのごとく、からうじて暮れぬ
前の年、かくのごとく、からうじて暮れぬ。明くる年は、立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘うちそひて、まさざまにあとかたなし。世人、みなけいしぬれば、日を経つつきはまりゆくさま、少水の魚のたとへにかなへり。果てには、笠うち着、足ひきつつみ、よろしき姿したるもの、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香、世界に満ち満ちて、変はりゆくかたち、ありさま、目もあてられぬ事多かり。いはむや、河原などには、馬、車のゆき交ふ道だになし。
前の一年は、このような状況で、やっとのことで暮れた。次の年は、きっと立ち直るだろうと願っていたところ、それどころか疫病が重なり、ますます悪化して元の生活の影も形もない。民はみな飢えに苦しんでいたので、日を追うごとに極限状態に達していく様子は、少ない水の中にいる魚の例えに合致する。しまいには、笠をかぶり、足に脛巾を巻き、それなりに整った身なりの者が、ひたすら家を一軒一軒まわって物乞いをしながら歩いている。このように落ちぶれて困窮し、頭が真っ白になってしまった者どもは、歩くのかと見ていると、すぐに倒れて横たわってしまう。塀のそば、道端に、餓え死にした者のような死体は、数もわからない。死体を処理する方法もわからないないので、悪臭がそこら中に充満し、変わり果てていく死体の姿、腐乱する様子は、目も当てられないことが多い。言うまでもなく、賀茂川の河原などでは、馬や牛車が行き来する道さえない。
- あまりさへ【剰へ】:そればかりか。それどころか。そのうえ。
- えきれい【疫癘】:疫病。
- うちそふ【打ち添ふ】:付け加わる。追加される。
- まさざま【増様】:ふえていくさま。はなはだしいさま。
- けいし:諸説あり。「飢す(けいす)」の連用形で、「飢えにせめられて」の意味か。「やみ死にければ」、「飢え死にければ」とする諸本もあり。
- きはまる【極まる・窮まる】:極限に達する。限度に行きつく。困窮に陥る。
- かなふ【適ふ】:適合する。合致する。そのとおりになる。
- うちきる【打ち着る】:衣服などを体にまとう。着る。かぶる。
- よろしきすがた【宜しき姿】:ととのった服装。ふつうの身なり。
- わぶ【侘ぶ】:落ちぶれる。貧乏になる。
- しる【痴る】:心の働きがにぶる。ぼうっとする。愚かになる。
- とりすつ【取り捨つ】:取りのぞく。片づける。
あやしき賤、山賤も力尽きて、薪さへ乏しくなりゆけば
あやしき賤、山賤も力尽きて、薪さへ乏しくなりゆけば、頼む方なき人は、みづからが家をこぼちて、市に出でて売る。一人が持ちて出でたる価、一日が命にだに及ばずとぞ。あやしき事は、薪の中に赤き丹つき、箔など所々に見ゆる木、あひ交はりけるを尋ぬれば、すべきかたなきもの、古寺にいたりて、仏を盗み、堂の物の具を破り取りて、割り砕けるなりけり。濁悪世にしも生まれあひて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。
得体の知れない下賤な者、山里に住む卑しい身分の木こりも力尽き、薪までもが不足していくと、他に当てのない人は、自分の家を解体し、市場に出して売る。一人が持ち出した物の価値は、なんと一日の命にさえならないという。けしからんことは、薪の中に赤い塗料、金箔などが所々に見える木が混じっているのを調べてみると、救いようのない者が古寺に行って、仏像を盗み出し、堂内の仏具を奪い取り、割り砕いたものであった。汚れや罪悪にまみれた世に、私はあろうことか生まれ合わせてしまい、こんなにも不愉快な行いを見てしまったのです。
- あやし【奇し・怪し】:普通と違っている。異様だ。不審だ。けしからん。
- やまがつ【山賤】:山里に住む身分の低い者。木こり。
- に【丹】:赤色の顔料。
- はく【箔】:金銀の箔。
- すべきかたなし【為べき方無し】:救いようがない。どうしようもない。
- ぢよくあくせ【濁悪世】:〘仏教語〙さまざまな汚れや罪悪に満ちている世界。
いとあはれなる事も侍りき。さりがたき妻、をとこ持ちたるものは
いとあはれなる事も侍りき。さりがたき妻、をとこ持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。そのゆゑは、わが身は次にして、人をいたはしく思ふ間に、まれまれ得たる食ひ物をも、かれにゆづるによりてなり。されば、親子あるものは定まれる事にて、親ぞ先立ちける。また、母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子の、なお乳を吸ひつつ臥せるなどもありけり。
大変かわいそうなこともありました。離れがたい妻、夫を持っている者は、その愛する気持ちがより強くて深い者が、必ず相手より先に立って死んでしまう。その理由は、自分の身は二の次にして、相手を大事にしたいと思うがゆえに、ごくまれに得た食べ物をも、その人に譲ってしまうからである。そのため、親と子の関係である者は定められた運命によって、親こそが先に死ぬ。また、母親の命が尽きてしまったことがわからないまま、幼い子供が乳を吸いながら横になっていることなどもあった。
- あはれ:かわいそうだ。気の毒だ。
- さりがたし【去り難し】:離れがたい。捨てられない。
- さきだつ【先立つ】:前に立つ。先に行く。先に死ぬ。
- いたわし【労し】:大事にしたい。大切にしたい。
- あひだ【間】:⋯ゆえ。⋯から。⋯ので。
- いとけなし【幼けなし】:幼い。
仁和寺に隆暁法印といふ人、かくしつつ
仁和寺に隆暁法印といふ人、かくしつつ、数も知らず死ぬる事を悲しみて、その首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。人数を知らむとて、四五両月を数へたりければ、京のうち、一条よりは南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東の、路のほとりなる頭、すべて四万二千三百余りなんありける。いはむや、その前後に死ぬるもの多く、また、河原、白河、西の京、もろもろの辺地などを加へていはば、際限もあるべからず。いかにいはむや、七道諸国をや。
崇徳院の御位の時、長承のころとか、かかるためしありけりと聞けど、その世のありさまは知らず。まのあたり、めづらかなりし事なり。
仁和寺にいた隆暁法印という人は、このような飢饉が続いて、数え切れないほど多くの人々が死んでいくことを悲しんで、その死者の首が目に入るたびに、額に阿字を書いて、成仏するための仏縁を結ばせることをなさったという。死んだ人の数を知ろうとして、4月と5月の両月の死者数を数えたところ、平安京の中で一条より南、九条より北、京極より西、朱雀より東の、道端にある死者の頭は、全部で42,300余りもあったそうだ。ましてや、この二ヶ月間の前後に死んだ者も多く、賀茂川の河原、白河、西の京、その他もろもろの郊外なども加えて言ってみれば、際限などあるはずがない。さらに言うまでもなく、七道諸国を加えればなおさらのことである。
崇徳院が御在位であった時代、長承のころとか、このような前例があったと聞くが、その時の様子は知らない。目の当たりにした出来事は、歴史的にもめったにないことであった。
- にんなじ【仁和寺】:京都市右京区御室にある寺。真言宗御室派の総本山。仁和4年(888年)創建。
- りうげうほふいん【隆暁法印】:源俊隆の子。大僧正寛暁の弟子。
- あじ【阿字】:〘仏教語〙梵語の第1番目の文字。事物の始まり、万物の根源を意味する。
- きゃうごく【京極】:東京極大路。現在の寺町通。
- しゆざく【朱雀】:朱雀大路。現在の千本通。
- かはら【河原】:賀茂川の河原。
- しらかは【白河】:平安京の東北にある外辺地域。
- にしのきゃう【西の京】:平安京の朱雀大路から西の部分。
- しちだう【七道】:東海道、東山道、山陽道、山陰道、北陸道、南海道、西海道。当時の日本全域をさす。
- ためし【例し】:例。
養和の飢饉とは
福原遷都の最中から始まっていた天候不順
天候不順は平清盛が福原遷都を強行した年、治承4(1180)年から始まっていたようです。同時代に朝廷の公卿であった中山忠親が残した日記、『山槐記』には次のような記述があります。
去る六月より天、旱す。今日、初めて下る。但し、天下、みな損亡しをはんぬ。(『山槐記』治承四年八月六日)
清盛が安徳天皇らを連れて、福原への遷幸を開始したのが治承4(1180)年6月2日。ちょうどその頃から日照りが続き、同年8月には天下がみな損亡していたとのこと。養和の飢饉が発生したのは養和元(1181)年とされていますが、その前年から兆候はあったようです。
福原への遷都は半年も経たずに頓挫しました。「古京はすでに荒れて、新都はいまだならず」と長明が記述しているように、福原での新都建設は難航。極端な少雨で河川の水位が十分でなく、資材の運搬に支障をきたしたことも一因と考えられます。
二度の改元もむなしく状況はますます悪化
元号が「養和」へと改元されたのは、治承5(1181)年7月14日のことです。つまり、養和の飢饉は治承5年から始まっていました。安元の大火をきっかけに治承へと改元されたように、大きな厄災はしばしば改元の理由となります。治承から養和へと改元されたのは、すでに飢饉の被害が深刻化していたことも一因ではないでしょうか。ちなみに、養和に改元される約5ヶ月前、治承5年閏2月4日には平清盛が急逝しています。
前の年、かくのごとく、からうじて暮れぬ。明くる年は、立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘うちそひて、まさざまにあとかたなし。
養和へと改元した後も、状況はますます悪くなっていきました。養和の時代は1年と持たず、養和2(1182)年5月27日に「寿永」へと改元されます。しかし飢饉が収まることはなく、それどころか疫病まで発生。『方丈記』の記述通り、悲惨に悲惨を重ねる状況が続いたのです。