おほかた、この所に住みはじめし時は
おほかた、この所に住みはじめし時は、あからさまと思ひしかども、今すでに、五年を経たり。仮の庵もやや故郷となりて、軒に朽葉深く、土居に苔むせり。おのづから、事のたよりに都を聞けば、この山にこもり居て後、やむごとなき人のかくれ給へるもあまた聞こゆ。まして、その数ならぬたぐひ、尽くしてこれを知るべからず。
そもそも、この場所に住み始めた時はほんの少しの間と思っていたけれど、もうすでに5年も経ってしまった。仮の庵もしだいに住みなれた家となり、軒には落ち葉が深く積もり、土台には苔が生えてきた。たまたま、何かのついでに都の様子を聞くと、この山に籠もって以後、身分の高い人がお亡くなりになったという話もたくさん耳にする。まして、とるに足りない身分の人々は、すべてを数え知ることはできない。
- おほかた【大方】:そもそも。
- あからさま:ほんのしばらく。
- やや【稍・漸】:しだいに。だんだん。
- ふるさと【故郷】:住みなれた所。
- くちば【朽ち葉】:枯れて腐った落ち葉。
- つちゐ【土居】:家の柱を立てる土台。
- おのづから【自ら】:たまたま。まれに。
- ことのたより【事の便り】:何かの用事のついで。
- やむごとなし:家柄や身分が高貴だ。
- かくる【隠る】:(身分の高い人が)死ぬ。亡くなる。
- あまた【数多】:数多く。たくさん。
- かずならず【数ならず】:とるに足りない。
たびたび炎上にほろびたる家
たびたび炎上にほろびたる家、また、いくそばくぞ。ただ、仮の庵のみ、のどけくして恐れなし。ほど狭しといへども、夜臥す床あり、昼居る座あり。一身を宿すに不足なし。かむなは小さき貝を好む。これ、事知れるによりてなり。みさごは荒磯に居る。すなはち、人を恐るるがゆゑなり。われ、また、かくのごとし。事を知り、世を知れれば、願はず、走らず。ただ、静かなるを望みとし、憂へなきを楽しみとす。
たびたびの火災で滅んだ家はまた、どれほどであろうか。ただただ、仮の庵だけが平穏で、何の心配もない。広さが狭いとは言え、夜寝る場所も、昼に生活する場所もある。我が身一つを宿らせるのに不足はない。ヤドカリは小さな貝殻を好む。これはそうすべき事情をよく知っているからである。ミサゴは荒磯に棲む。それは人が近づくのを恐れているからである。私もまたこのようである。身の程を知り、世のむなしさがわかっているから、欲しがらず、あくせくせず、ただ静かであることを望み、不安のないことを楽しみとしている。
- いくそばく【幾十許】:どれほどたくさん。
- のどけし【長閑けし】:平穏だ。
- おそれ【恐れ・畏れ】:心配。
- ほど【程】:広さ。
- ふす【臥す・伏す】:寝る。
- ゐる【居る】:座る。
- ざ【座】:すわる場所。
- かむな【寄居】:やどかり
- こと【事】:事情。わけ。
- みさご【鶚・雎鳩】:水辺に住み、魚を捕る鳶に似た鳥の名。
- ゆゑ【故】:理由。
- わしる【走る】:あくせくする。
- うれへ【憂へ】:心配。不安。
すべて、世の人の栖をつくるならひ
すべて、世の人の栖をつくるならひ、必ずしも事のためにせず。或は妻子、眷属のためにつくり、或は親昵、朋友のためにつくる。或は主君、師匠、および財宝、牛馬のためにさへこれをつくる。われ今、身のために結べり。人のためにつくらず。ゆゑいかんとなれば、今の世のならひ、この身のありさま、ともなふべき人もなく、頼むべき奴もなし。たとひ、広くつくれりとも、誰を宿し、誰をか据ゑん。
だいたいにおいて、世の人が家を建てるのは、必ずしも事情があるわけではない。ある人は妻子や一族のために建て、ある人は親しい人や友人のために建てる。ある人は主君、師匠、さらには財宝や牛馬のためにまで建物を建てる。私は今、自分の身のために庵を造った。誰か人のために作ったのではない。理由は何かと言うと、今の世の状況からしても、我が身の境遇からしても、連れ添う人もければ、頼りにしている召使いもいない。たとえ広く造ったとしても、誰を泊めて、誰を住まわせようというのか。
- ならひ【習ひ・慣らひ】:慣例。
- けんぞく【眷属・眷族】:親族。一族。
- しんぢつ【親昵】:親しい人。
- ほういう【朋友】:親友。友人。
- むすぶ【結ぶ】:(庵を)構え造る。
- ゆゑ【故】:理由。
- いかん【如何】:どうしてか。
- ともなふ【伴ふ】:連れ添う。
- やつこ【奴】:召使い。
- すう【据う】:住まわせる。