元暦の大地震とは?『方丈記』の現代語訳と地震の規模を考察

 元暦の大地震とは、元暦2(1185)年7月9日の午刻(正午頃)に平安京を襲った大地震です。翌月の8月14日に元暦から文治へと改元されたため、文治地震とも呼ばれます。地震の推定規模はマグニチュード7.4。平成7(1995)年1月17日に発生した兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)のマグニチュードが7.3ですので、すさまじい被害をもたらしたことは想像に難くありません。

 山は崩れて河をうづみ、海はかたぶきてくがをひたせり。土裂けて水湧きで、いはほ割れて谷にまろる。

 被災した鴨長明は、地震発生当時の状況を『方丈記』に克明に書き記しました。「海は傾きて陸地をひたせり」とは津波のことで、「土裂けて水湧き出で」とは液状化現象の描写です。おびただしい数の餓死者を出した養和の飢饉から3年、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡した約3ヶ月後。時代の転換期に都を襲った「元暦の大地震」について、『方丈記』の原文と現代語訳を紹介するとともに、地震の規模を考察します。

方丈記「元暦の大地震」原文と現代語訳

また、同じころかとよ

原文

 また、同じころかとよ。おびたたしくおほふる事はべりき。

 そのさま、世の常ならず。山は崩れて河をうづみ、海はかたぶきてくがをひたせり。土裂けて水湧きで、いはほ割れて谷にまろる。なぎさぐ船は波にただよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどはす。都のほとりには、ざいざいしよしよだうしやたふめう、ひとつとしてまたからず。あるいは崩れ、或はたふれぬ。ちりはひ立ちのぼりて、さかりなるけぶりのごとし。地の動き、家の破るる音、いかづちにことならず。家のうちにれば、たちまちにひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れの中に恐るべかりけるは、ただ地震なりけりとこそおぼえ侍りしか。

現代語訳

 また、同じころであったろうか。すさまじい大地震が起こり、大地が激しく揺れ動くことがありました。

 その光景は、尋常ではない。山は崩れて河川をうずめ、海は傾いて陸地を浸した。大地が裂けて水が湧き出し、大きな岩が割れて谷に転がり落ちる。渚を漕ぐ船は波に翻弄され、道を行く馬は足元がおぼつかない。都の辺りでは、どこもかしこも、あらゆる家々や神社仏閣、一つとして無事に残っているものはない。ある建物は崩れ落ち、ある建物は倒壊してしまった。土ぼこりや灰が巻き上がって、勢いよく吹き出す煙のようである。大地が揺れ動き、家が破壊される音は、雷と違わない。家の中にいれば、必ずやすぐに押しつぶされてしまうだろう。外に走り出れば、地面が割れ裂ける。羽がないので、空を飛ぶこともできない。竜だったら、雲にでも乗るだろうか。恐れの中でもっとも恐れなければならなかったことは、実は地震だったのだとしっかり記憶したのでした。


語釈
  • おびただし【夥し】:程度がはなはだしい。激しい。
  • ふる【震る】:大地が揺れ動く。
  • まろぶ【転ぶ】:転がる。倒れる。
  • たちど【立ち処・立ち所】:立っている所。立っている足もと。
  • まどふ【惑ふ】:乱れる。あわてる。うろたえる。
  • ざいざいしよしよ【在々所々】:いたるところ。ここかしこ。
  • だうしや【堂舎】:社寺の建物。寺の堂や塔。
  • たふ【塔】:仏舎利(釈迦の遺骨)を安置したり。死者を供養するために建てる石塔や五輪塔など。
  • べう【廟】:死者の霊を祭る所。
  • またし【全し】:無事である。
  • ひしぐ【拉ぐ】:押されてつぶれる。

かくおびただしくふる事は

原文

 かくおびたたしくふる事は、しばしにてやみにしかども、そのなごり、しばしは絶えず。世の常、驚くほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。十日、二十日すぎにしかば、やうやうどほになりて、或は四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、おほかたそのなごり、つきばかりや侍りけむ。

現代語訳

 このように激しく揺れることは、しばらくして止んだけれども、その余震は、しばらく絶えない。普段なら、驚くほどの地震が、一日に20~30回揺れない日はない。十日、二十日過ぎると、ようやく間隔が遠くなって、ある日は一日に4~5回、2~3回など、もしくは一日おき、2~3日に一回など、だいたいその余震は、3ヶ月ぐらい続いたでしょうか。


語釈
  • なごり【名残】:余震。
  • やうやう【漸う】:だんだん。しだいに。やっとのことで。
  • まどほ【間遠】:間隔が遠い。
  • 一日まぜ:一日おき。

四大種の中に、水、火、風は害をなせど

原文

 だいしゆの中に、水、火、風は常に害をなせど、大地にいたりては、ことなる変をなさず。昔、さいかうのころとか、大地震ふりて、東大寺の仏のぐし落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、なほ、このたびにはしかずとぞ。すなはちは、人みなあぢきなき事を述べて、いささか心のにごりもうすらぐと見えしかど、月日重なり、年にしのちは、言葉にかけて言ひづる人だになし。

現代語訳

 四大種の中で、水、火、風はいつも災害を引き起こすけれど、地にいたっては、異変を起こさない。昔、斉衡のころとか、大きな地震で揺れて、東大寺の大仏のぐしが落ちたなど、不吉で恐ろしいこともありましたが、それでも、この度の地震の被害には及ばないそうだ。地震発生からしばらくの間は、人はみなどうしようもなく空しい出来事を述べて、少しは心の濁りも薄らぐかと思われたが、月日が経った後は、話題にして口に出す人さえいない。


語釈
  • しだいしゆ【四大種】:〘仏教語〙物質を構成する地・水・火・風の4元素。
  • ことなり【異なり・殊なり】:特別である。格別である。
  • いみじ【忌みじ】:(程度が)はなはだしい。なみなみでない。
  • しかず【如かず・若かず・及かず】:⋯に及ばない。⋯に勝ることはない。
  • すなわち【即ち・乃ち・則ち】:そこで。そういうわけで。
  • あぢきなし:(道理に合わず)どうしようもない。どうにもならない。むなしい。つまらない。
  • いささか【聊か・些か】:わずかばかり。ほんの少し。
  • ことばにかく【言葉に掛く】:話題にする。言葉に出して言う。

元暦の大地震の規模は南海トラフ並み?

発生日時

『方丈記』には具体的な発生日時が書かれていませんが、他の書物の記述から元暦2(1185)年7月9日午刻(正午頃)に揺れたことがわかっています。九条兼実の日記『玉葉』によると、約3週間前の6月20日に大きな前震があり、7月9日の本震以降も余震が続いたようです。余震については『方丈記』にも、「おほかたそのなごり、つきばかりや侍りけむ」と3ヶ月ほど続いたことが書かれています。

 元暦の大地震の約3ヶ月前、元暦2(1185)年3月24日に壇ノ浦の戦いに敗れた平家が滅亡しました。都では平氏一門の処罰が続いており、6月21日に平清盛の三男である宗盛と、宗盛の長男である清宗が斬首刑に。6月23日には清盛の五男、平重衡が斬首されました。そんな最中に大地震が起きたため、平家の怨霊だという噂も流布。天台宗の僧侶、慈円が記した『愚管抄』には、「平相国、龍になりて振りたると、世には申しき」と記述されています。

 それにしても長明はなぜ、具体的な日時を書かなかったのでしょうか。養和の飢饉から3年後のことであり、「同じころかとよ」というのもアバウト過ぎると思います。安元の大火は安元3年4月28日戌の時、治承の辻風は治承4年卯月のころ、福原遷都は治承4年水無月のころ、と具体的に書かれているのに、養和の飢饉は「養和のころとか、久しくなりておぼえず」となり、元暦の大地震は「同じころかとよ」とあいまいです。

 各災害についてあれほど細かな描写をする長明が、元暦の大地震の発生日時を忘れたとは思えません。前の文章を受けて「同じころ」としたのであれば、養和の飢饉と元暦の大地震との間に、何か書かれていたのではないでしょうか。そういえば『方丈記』は、源氏に関する記述がまったくありません。『方丈記』の成立が鎌倉時代であり、その頃に長明は鎌倉へ出かけてもいるので忖度したのかも? もしかすると長明の死後、鎌倉幕府が都合の悪い部分をカットしたのかも? などと妄想してしまいます。

地震の規模

 元暦の大地震の震源地については、京都盆地東北部とも、琵琶湖西岸付近とも考えられています。また、富山県黒部市に鎮座する新治神社には文治元(1185)年に大津波で村全体が沈んだと伝えられており、元暦の大地震と関連があるとすれば日本海側全体に及ぶ巨大地震だったのかもしれません。残っている記録が京都周辺の被害ばかりであるため、全国的にどのような影響があったのかは不明です。

『方丈記』には「海は傾きて陸地をひたせり」と、津波が襲ったことを思わせる記述があります。これがどの場所で起こったのかはわかりませんが、中山忠親の日記『山槐記』に「琵琶湖の水が岸から50mほど引いた」という記述があることから、琵琶湖の水が一気に流れ込んだことを描写しているのかもしれません。琵琶湖は「近江の海」とも呼ばれていたので、「海」と表現するのも変ではありません。

 しかし新治神社の言い伝えを考慮すると、日本海で津波が発生した可能性も十分に考えられます。『平家物語』には「遠国、近国もかくのごとし」と記されており、京都周辺だけでなく全国的に大きな被害があったということです。また、『平家物語』では琵琶湖を「湖」、または「水海」と表現しており、「海」は琵琶湖を表していないとも考えられます。もしかすると元暦の大地震は、南海トラフ地震のような全国規模の巨大地震であったのではないでしょうか。

 死者数についての記録はありませんが、「ざいざいしよしよだうしやたふめう、ひとつとしてまたからず」という通り、京都周辺の寺社の被害がすさまじかったことは他の文献にも記録されています。旧暦の7月9日は、新暦(ユリウス暦)に換算すると8月6日。季節は真夏です。被災者の体力消耗、遺体の腐敗スピードも最悪だったことでしょう。瓦礫に挟まれて、暑い中水も飲めずに亡くなっていった人々も多かったのではないでしょうか。いずれにしても大勢の人々が犠牲になったことは間違いないかと思います。

大災害もすぐに忘れ去られる虚しさ

 月日重なり、年にしのちは、言葉にかけて言ひづる人だになし

 これほどの大災害が起きても、何年か経つと口に出す人はいなくなってしまいました。世の人々がこうしてすぐに忘れてしまうことを、長明はとても虚しく感じていたのでしょう。『方丈記』はこの後、人の世についての話題へと移っていきます。今、生きづらさを抱えている人にぜひ読んでほしい、『方丈記』の後半部分の始まりです。