ここに、六十の露消えがたに及びて、さらに、末葉の宿りを結べる事あり。
60歳という露が消えそうな年齢になって、末葉の宿り(余生を過ごす住まい)を造った鴨長明。「広さはわづかに方丈(約5畳)」という小さな庵で、「日野山の奧にあとをかくして」晩年を過ごしました。代表作の『方丈記』は、その時に書かれた作品です。
今、方丈の庵があったとされる跡地が、京都市伏見区にある日野山にあります。京都市営地下鉄東西線の「石田駅」から歩いて約50分。なかなか距離がありますが、長明ファンなら一度は訪れてみたいところ。道中は人も車も少なく、ちょっとした山道もあり、散歩するにはちょうど良いコースです。「歩み煩ひなく、心遠く至る時」は、ぜひ方丈の庵跡を訪ねてみてくださいね♪
方丈の庵跡(鴨長明方丈址)の場所
方丈の庵跡は、京都市伏見区日野にあります。Googleマップでは「鴨長明方丈址」として登録されていますのでご注意ください。
最寄り駅は、京都市営地下鉄東西線の「石田駅」。最寄りと言っても距離にして約2km、40分ぐらい歩きます。方丈の庵跡は日野山の中にありますので、山道も通ります。歩きやすくて、汚れてもいい靴で向かいましょう。
方丈の庵跡(鴨長明方丈址)への行き方
京都駅から石田駅までのルート
まず、最寄り駅の「石田駅」までは、京都駅からJR奈良線で「六地蔵駅」まで行き、地下鉄東西線に乗り換えて一駅。乗り換え時間も含めて30分弱で着きます。
石田駅よりも歩く距離が1kmほど長くなりますが、六地蔵駅から歩いて方丈の庵跡へ向かうのもオススメです。地下鉄東西線への乗り換えにかかる手間や待ち時間を考えると、それほど労力は変わりません。六地蔵駅の方が周辺が栄えていて、昼食を取る場所もいくつかあります。後でご紹介しますが、六地蔵駅近くにある「四四田(よしだ)」というお店のカレーうどんが美味でした。行きは石田駅から、帰りは六地蔵駅までと、歩くルートを変えてみるのも楽しいですよ♪
石田駅から方丈の庵跡までの道順
石田駅を降りたら、2番出口から外に出ます。案内板に「方丈の庵跡」とは書いてませんが、「日野法界寺」が近くですので、そこを目指していきます。
2番出口を出ると、法界寺まで1.3kmという看板があります。矢印の方向に歩いて行きます。
真っすぐ10分ほど歩いたところでお酒の自販機を発見。最近あまり見ないので、懐かしいですね。
さらに真っすぐ10分ほど歩くと、「石田大山」という交差点に出ます。交差点を真っすぐ渡ったところで、法界寺まで900mという看板を発見。
石田駅を出た時の看板は1.3kmでしたので、400m進んだことになります。が、駅を出てから20分ほど歩いて、400mしか進んでいないっておかしいですよね⋯⋯。実際に歩いた時間はもっと短かったのかもしれません。でもこの時、「えっ、まだ400mしか進んでないの?」と不思議に思ったのは事実です。
ひたすら真っすぐ、矢印の方向に歩いて行きます。しかしながら、歩いても歩いても方丈の庵跡への案内板は出てきません。方丈の庵跡どころか、法界寺への看板も出てこなくなって不安になりますが、とにかく真っすぐ歩きます。途中、右手にファミリーマートが見えますが、そこも直進です。石田大山の交差点からさらに20分ほどは歩いたでしょうか。ようやく、「日野自治会公会堂」という施設の前に、「鴨長明方丈石まで約1000M」という道標が出てきました。
ちょうどここがゴミ置き場に指定されているのでしょうか。長明ファンとしてはちょっと悲しい光景ですが、道順は間違っていなかったということでひと安心。しかしここから1,000mとは、まだまだ先は長そうです。
日野自治会公会堂から少し歩くと、「鴨長明方丈石まで約900M」という道標が見えてきます。ここは矢印の向きに、右に進みます。
また少し歩くと、今度は立派な道標が見えてきます。方丈石まで800m。左に曲がります。
右手に日野公園があるところに、方丈石まで約650mの道標。だんだん近づいてきました。さっきまでとは打って変わって、距離が短く感じるのは気のせいでしょうか。石田駅を出た直後は400m進むのに20分かかったのに、1,000mの看板からここまでの350mは、5分ほどしかたっていない気がします。
そのまま真っすぐ進むと竹やぶに入り、山っぽくなってきます。
竹やぶを抜けると、鴨長明方丈石まで約300Mの道標。進むのが本当に早く感じます。方丈の庵跡までもう少しです。
この辺りから本格的に山道へと入っていきます。
方丈石まで約250m。突然見やすくなった文字に少し困惑します(笑)。
このような山道をひたすら進みます。住宅地からちょっと離れただけの場所なのに、身も心も浄化されそうなほど清々しい自然。本当に気持ち良いです。
「大福光寺本方丈記原本保存⋯⋯」と書かれた標しがあります。大福光寺本とは、『方丈記』の鴨長明自筆本ともいわれ、少なくとも最古の写本とされている伝本です。大福光寺は、この標しにも書かれている京都府船井郡京丹波町にあるお寺。なぜこの標しがここにあるのかは不明です。
さあ、方丈の庵跡はもうすぐです。
「!?」
着きました! 長明が方丈の庵を営み、『方丈記』を書いたとされる場所、方丈の庵跡です。
「長明方丈石」と「方丈の庵跡」の石碑
方丈の庵跡には、2つの石碑があります。
右側の「長明方丈石」と刻まれた石碑は、江戸時代の明和9(1772)年に建てられたそうです。明和9年は、江戸三大大火の一つといわれる「明和の大火(死者14,700人)」が発生し、「明和9年 = めいわく年 = 迷惑年」などといわれている年。『方丈記』にも「安元の大火」のことが書かれているので、何か思いがあって建てられたのかもしれません。
左側の石碑は、地元の有志たちが集まる「山城ライオンズクラブ」によって建てられたもので、方丈の庵跡についての説明と、鴨長明の略歴が記されています。
方丈の庵跡
方丈石はこの下の巨石と云われる。
ここは鴨長明が方1丈(3メートル強)の草庵を営み「方丈記」を著した場所と伝えられている。
長明の祖父は賀茂社の氏人で、父はその摂社河合社の祢宜であった。父長継の次男として仁平3年(1153)-一説に久寿2年(1155)-に生まれた長明は19才で父に死別した。彼は社司を志すかたわら琵琶を中原有安に学び、和歌を俊恵法師に学んだ。33才のとき「千載和歌集」に一首入選歌壇に認められ、47才のとき和歌所寄人となり宮廷歌人として活躍「新古今和歌集」に十首入選した。
しかし、社司の継承に失意した彼は元久元年(1204)出家し洛北大原に隠棲して4年を過ごし建暦元年(1211)日野に移り(一時鎌倉に行くが)草庵を結び「方丈記」を著わした。
鎌倉時代の変革期に末流貴族の子弟として自己と自己の生活を照破する文学を結実させた「方丈記」は鎌倉文化発展の序章(日本古典文学大系)と云われ、文学史上不可欠の意義を有している。建保4年(1216)閏6月8日没した。
ライオンズクラブ国際協会335-C
山城ライオンズクラブ
石田駅を出発して50分ほど歩いたでしょうか。特に何か見どころがあるわけではありませんが、長明がこの場所に方丈の庵を建て、気ままな山暮らしを楽しみ、『方丈記』を執筆したと思うと、感慨深いものがあります。長明が蝉歌の翁の旧跡を訪れたり、猿丸太夫の墓に参ったりしていたように、あなたも「歩み煩ひなく、心遠く至る時」はぜひ、方丈の庵跡へ足を運んでみてくださいね♪
帰りは六地蔵駅まで歩きました
ちょうどお昼時だったのでランチにしようと思ったのですが、石田駅周辺はあまりお店がなさそうだったので、JR奈良線の「六地蔵駅」まで歩くことにしました。石田駅に戻るよりも1kmほど距離が長くなりますが、石田駅で地下鉄を待つ時間と、六地蔵駅での乗り換え時間を考えると、時間的にはあまり変わらないかと思います。そして六地蔵駅周辺で見つけたお店が、「四四田(よしだ)」というお蕎麦屋さん。カレーうどんを注文したんですが、これが本当に美味しかったです。方丈の庵跡へ行く際はぜひ食べてみてください♪
住所:〒611-0002 京都府宇治市木幡陣ノ内51-3
電話番号:0774-32-1190