靫負命婦を遣わす
はかなく日ごろ過ぎて
はかなく日ごろ過ぎて、後のわざなどにもこまかにとぶらはせたまふ。ほど経るままに、せむ方なう悲しう思さるるに、御方々の御宿直なども絶えてしたまはず、ただ涙にひちて明かし暮らさせたまへば、見たてまつる人さへ露けき秋なり。
「亡きあとまで人の胸あくまじかりける人の御おぼえかな」
とぞ、弘徽殿などにはなほゆるしなうのたまひける。一の宮を見たてまつらせたまふにも、若宮の御恋しさのみ思ほし出でつつ、親しき女房、御乳母などを遣はしつつ、ありさまを聞こしめす。
- のちのわざ【後の業】:人が死んだ後の仏事。七日法要。
- とぶらふ【訪ふ】:弔問をする。
- せむかたなし【為む方無し】:なすべき手段がない。どうしようもない。
- とのゐ【宿直】:夜間、天皇や貴人のそばに仕え、相手をすること。
- たえて【絶えて】:まったく。いっこうに。ちっとも。すっかり。
- ひつ【漬つ・沾つ】:水につか。ぬれる。
- つゆけし【露けし】:しめっぽい。露っぽい。涙がちである。
- むねあく【胸開く】:気持ちが晴れる。気持ちがすっきりする。
- こきでん【弘徽殿】:清涼殿の北にあり、皇后・中宮や有力な女御などの住居。
- こきでんのにょうご【弘徽殿女御】:帝の女御で、第一皇子の母。
なんでもない日々が過ぎて、帝は更衣の七日法要などにも丁寧に弔問の使者を送られます。月日が経つにつれて、帝はどうしようもなく悲しく思うばかりで、女御たちの夜のお仕えなどもすっかりありません。ただ涙に濡れて夜を明かす毎日で、帝を拝する人々さえも涙の露でしめっぽい空気の秋になりました。
「亡き後まで人の心をざわつかせる女の御追憶ですか」
と、弘徽殿女御の周囲ではなおも手厳しくおっしゃっています。帝は一の宮を御覧になる時でも、若宮への恋しい気持ちばかりが思い出されるありさま。信頼できる女房や乳母などを、若宮のいる更衣の里へと差し向けて、若宮の様子を尋ねるのでした。
野分だちて、にはかに肌寒き夕暮のほど
野分だちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、常よりも思し出づること多くて、靫負命婦といふを遣はす。夕月夜のをかしきほどに出だし立てさせたまひて、やがてながめおはします。かうやうの折は、御遊びなどせさせたまひしに、心ことなるものの音をかき鳴らし、はかなく聞こえ出づる言の葉も、人よりはことなりしけはひかたちの、面影につと添ひて思さるるにも、闇のうつつにはなほおとりけり。
- のわきだつ【野分だつ】:野分のような風が吹く。台風一過、荒涼とした心象を表す。
- ゆげひ【靫負】:靫(矢を入れて背負う細長い箱型の武具)を背負って宮中の警護にあたった者。
- みゃうぶ【命婦】:平安時代の女官の名称。平安時代中期以降は中級の女房をさす。
- ゆげひのみゃうぶ【靫負命婦】:父兄や夫が「靫負」である五位以上の女官。
- ゆふつくよ【夕月夜】:夕方に出ている月。夕月。大風の吹き晴らした夜空に月が美しい。
- ながむ【眺む】:長い間ぼんやり見ている。もの思いにふける。
- せさせたまふ【せさせ給ふ】:させなさる。お⋯になられる。
- こころこと【心異・心珠】:格別にすぐれているさま。
- もののね【物の音】:音楽の音。
- かきならす【掻き鳴らす】:弦楽器を奏でで鳴らす。弾き鳴らす。
- ことのは【言の葉】:ことば。言語。詩歌。
- けはひ:(音・声・においなどによってとらえられる)雰囲気。ようす。感じ。
- やみのうつつ【闇の現】:暗闇の中での現実。真っ暗な中で実際に会うこと。
荒々しい風が吹いて、急に肌寒くなった秋の夕暮れ時に、帝はいつにもまして思い出されることが多く、靫負命婦という使いを送りました。夕月が美しく光る空のもと出発させなさると、そのままもの思いにふけっておられます。このような風情のある時節には管絃の御遊びなどをお楽しみになりましたが、やさしく美しい音色を奏でて、透き通った声で歌い出す言の葉も、更衣は他の人よりは違っていました。幻影にじっと寄り添って思いなさるも、かつて闇の中で触れた現実の更衣にはやはり及びません。
命婦かしこに参で、着きて門引き入るるより
命婦かしこに参で、着きて門引き入るるより、けはひあはれなり。やもめ住みなれど、人ひとりの御かしづきにとかくつくろひ立てて、めやすきほどにて過ぐしたまひつる、闇に暮れて臥し沈みたまへるほどに、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ八重葎にも障らずさし入りたる。
- かしこ【恐・畏】:恐れ多いこと。慎むべきこと。
- やもめずみ【寡住み】:夫や妻がいないで一人で暮らしていること。独身の生活。
- かしづき【傅き】:大事に世話をすること。
- めやすし【目安し・目易し】:感じがよい。見苦しくない。
- やみにくる【闇に暮る】:悲しみや嘆きで、ものの道理がわからなくなる。分別を失う。
- のわき【野分】:秋に吹く暴風。台風。
- やへむぐら【八重葎】:幾重にも生い茂ったむぐら(=つる草)。
- さはる【障る】:さえぎられる。妨げになる。
命婦は恐れ多く詣で着いて、門に車を引き入れるところから雰囲気が寂しい。お一人で暮らしているとはいえ、一人娘を大切にお世話なさり、あれやこれやと整えて立てて、見苦しくない程度には過ごしなさっている、悲しみに暮れるあまり横になってしず分別を失うほど沈んでおられるうちに、草は高く伸び、台風でたいそう荒れているようすで、月の影ばかりが幾重にも生い茂ったつる草にも遮られずにさし入っている。
帝の手紙
南面に下ろして、母君もとみに
南面に下ろして、母君もとみにえものものたまはず。
「今までとまりはべるがいと憂きを、かかる御使の蓬生の露分け入りたまふにつけても、いと恥づかしうなん」
とて、げにえたふまじく泣いたまふ。
「『参りてはいとど心苦しう、心肝も尽くるやうになむ』と、典侍の奏したまひしを、もの思うたまへ知らぬ心地にも、げにこそいと忍びがたうはべりけれ」
とて、ややためらひて仰せこと伝へきこゆ。
- とみに【頓に】:急に。すぐに。にわかに。
- のたまふ【宣ふ】:〘「言ふ」の尊敬語〙おっしゃる。
- とまる【止まる・留まる】:生き残る。後に残る。
- よもぎふ【蓬生】:よもぎが生い茂った所。雑草の生い茂った荒れ果てた場所。
- ないし【内侍】:「内侍司」の女官。天皇のそばに仕え、天皇のことばを伝えたり、天皇に奏請したりする。
- ないしのすけ【典侍】:内侍司の次官。
- ものおもひしる【物思ひ知る】:ものの道理をわきまえる。
- おほせごと【仰せ言】:(天皇や貴族の)ご命令。おことば。
母君は南側の部屋に命婦を招き入れますが、すぐには言葉が出てきません。
「今までこの世にとどまり続けてきたことがとてもつらくて、このような御使いの方が草をかき分けてお入りになるにつきましても、大変お恥ずかしいことでございます」
と言いいながら、涙をこらえきれないように泣いておられます。
「こちらに伺いましたところ大変心苦しく、精神をえぐられるようでしたと、先に見舞った典侍が帝に申し上げておりました。わたしのような物事の情趣をわきまえない心持ちにも、まことにどうにも感情を隠しきれないことでございます」
と言い、少々ためらって帝のお言葉をお伝え申します。
しばしは夢かとのみたどられしを
「『しばしは夢かとのみたどられしを、やうやう思ひ静まるにしも、さむべき方なく耐へがたきは、いかにすべきわざにかとも問ひ合はすべき人だになきを、忍びては参りたまひなんや。若宮のいとおぼつかなく露けき中に過ぐしたまふも、心苦しう思さるるを、とく参りたまへ』などはかばかしうものたまはせやらず、むせ返らせたまひつつ、かつは人も心弱く見たてまつるらんと、思しつつまぬにしもあらぬ御けしきの心苦しさに、うけたまはり果てぬやうにてなんまかではべりぬる」
とて、御文たてまつる。
「目も見えはべらぬに、かくかしこき仰せ言を光にてなむ」
とて見たまふ。
- たどる【辿る】:あれこれ考える。思い悩む。探し求める。迷いながら訪ね行く。
- おぼつかなし【覚束なし】:気がかりだ。心配だ。
- つゆけし【露けし】:しめっぽい。涙がちである。
- はかばかし【果果し・捗捗し】:しっかりしている。はきはきしている。
- やらず【遣らず】:最後まで⋯できない。完全に⋯してしまわない。
- おぼしつつむ【思し包む】:心をお包みお隠しになる。
「帝は涙でむせ返りながら、『しばらくは夢かとばかり思い迷っていたところ、少しずつ気持ちが冷静になるものの、現実は夢から覚めるすべもなく耐えがたいものです。どうすれば受け入れられるのかと、相談すべき相手さえいないので、内密に宮中へ来てくれませんか。若宮が心細くめそめそとした空気の中で過ごしているのも心苦しく思うゆえ、早く参上したまえ』など、はきはきと最後までは仰せになりませんでした。一方で、心が弱い帝だと映ってはしまわないかと、人目を忍ばないでもない御様子が心苦しく、すべてをお聞きすることもできないまま退出してまいりました」
と言って、帝の御手紙を差し上げました。
「涙で目も見えませんが、このような尊い帝のお言葉を月の光を明かりにして読みましょう」
と言って御覧になります。
ほど経ば少しうち紛るることもやと
ほど経ば少しうち紛るることもやと、待ち過ぐす月日に添へて、いと忍びがたきはわりなきわざになん。いはけなき人をいかにと思ひやりつつ、もろともに育まぬおぼつかなさを、今はなほむかしの形見になずらへてものしたまへ。
などこまやかに書かせたまへり。
宮城野の露吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ
とあれど、え見たまひ果てず。
- いはけなし【稚けなし】:幼い。
- もろともに【諸共に】:いっしょに。そろって。
- なずらふ【準ふ・准ふ・擬ふ】:類する。准ずる。同じ類とする。他のものに似せる。
時がたてば少しは悲しみが紛れることもあろうかと、ただ待ちながら過ごす月日に添えてひどく耐え難くなるのは、理性で割り切れるようなことではありません。幼い若君はどうしているだろうかと思いやりつつ、あなたと共に育てられないことがもどかしいのです。今はやはり、このわたしを故人の形見と思って宮中においでなさい。
など、丹念にお書きになっている。
宮城野の露吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ
とありますが、母君は最後まで拝読することができません。