藤原広嗣|鎌足・不比等からの家系と生涯をわかりやすく解説

 天平12(740)年に朝廷への反乱を起こした人物として歴史に名を残している藤原広嗣。藤原姓の始祖、中臣鎌足のひ孫で、祖父は大政治家の藤原不比等。不比等の4人の息子たちは藤原四兄弟と呼ばれ、政権の中枢を担っていましたが、天然痘パンデミックにより相次いで死去。広嗣の父宇合もその一人でした。

 宇合は藤原式家の始祖であり、長男の広嗣は将来を期待されていた若きホープでした。順調にキャリアを重ねていましたが、父親たちの後ろ盾がなくなると暗転。大宰府へ左遷され、その地で朝廷への反乱を起こすも敗戦。最期は国家の反逆者として処刑されました。そんな藤原広嗣の生涯について、家系と経歴をわかりやすくまとめました。

藤原広嗣の家系

曽祖父:藤原鎌足(中臣鎌足)

 中臣鎌足といえば、大化の改新で活躍した人物として有名ですよね。中大兄皇子と協力し、実質的な最高権力者であった蘇我入鹿を殺害。後に天智天皇として即位する中大兄皇子の側近として、国政改革を進めていった偉人です。天智天皇8(669)年11月13日、亡くなる前日に天智天皇から「藤原」の姓を賜り、藤原鎌足として56歳で亡くなりました。藤原の名は、鎌足の生地である大和国高市郡藤原(現奈良県橿原市)という地名が由来です。

祖父:藤原不比等

 不比等は鎌足の次男として、斉明天皇5(659)年に生まれました。兄の定恵は出家したうえ、鎌足が亡くなる前に早世していたため、不比等が鎌足の後を継ぎ、藤原姓を継承しました。大宝律令の編纂に大きく関わった大政治家で、娘の宮子を文武天皇の夫人とすることで関係を強化。その間に生まれた子供が後の聖武天皇であり、聖武天皇にも娘の安宿媛を嫁がせました。安宿媛は後に光明皇后となりますが、これが非皇族で初めての皇后です。不比等はこうして藤原氏繁栄の礎を築いた偉人であり、4人の息子たちも国政の中枢を担うことになります。

父:藤原宇合

 広嗣の父宇合は、不比等の三男として持統天皇8(694)年に生まれました。遣唐使として唐に渡ったり、朝廷の人事をつかさどる式部卿を務めたり、持節大将軍として蝦夷を平定させたりと、文武ともに活躍。兄の武智麻呂と房前、弟の麻呂と合わせて藤原四兄弟と呼ばれ、国政の重要な役割を果たしていました。しかし、天平9(737)年に流行した天然痘により、藤原四兄弟が相次いで死去。宇合の天平9(737)年8月5日に44歳で亡くなりました。

母:国盛

 広嗣の母は国盛という人で、石上麻呂の娘です。石上麻呂は不比等と同時期に活躍していた人物で、和銅元(708)年に右大臣から左大臣になった時、右大臣の跡を継いだのが不比等でした。つまり、広嗣の祖父は父方が右大臣、母方が左大臣であったわけです。さらに不比等の娘が産んだ聖武天皇は、広嗣と従兄弟の関係。この事実だけでも広嗣のエリートっぷりがわかるかと思います。

藤原広嗣はいつ生まれたのか

 藤原広嗣の生年は記録がなく正確にはわかっていませんが、おそらく和銅7(714)年頃に生まれたのではないかと推定されています。その理由の一つは、弟の吉継が霊亀2(716)年生まれとされていること。広嗣は藤原宇合の長男であり、吉継は次男です。そのため、広嗣は716年より少し前に生まれたことになります。

 もう一つの理由は『続日本紀』の天平9(737)年9月28日の記事で、広嗣が従六位上から従五位下に叙されていること。大宝律令には「蔭位」という制度があり、位階が高い親のもとに生まれた子孫は、21歳以上になると一定以上の位階を授けられていました。父の宇合は天平6(734)年に正三位に叙されており、律令規定で正三位の嫡子の蔭位は従六位上。そのため、広嗣は蔭位で従六位上を授かっていたといえます。その後は考課を積み重ねて昇進していくのですが、次に叙位されるまでの年限は4年と定められていました。広嗣が21歳で従六位上を賜り、4年以内に従五位下に昇進したとすると、従五位下に叙された737年時点の広嗣は25歳以下。つまり、713年以降に生まれたと推定できます。

 以上二つの理由から、広嗣の生年として推定されるのは713~715年の間。当記事では中間の714年を生年と仮定して、広嗣の生涯を追っていきたいと思います。

藤原広嗣の生涯

 実は広嗣が歴史書に登場するのは、上述の従五位下に叙されたという記事が初めてです。どのように成長していったのかはわかっていませんが、父宇合の経歴をたどることである程度の想像はできます。

父宇合の経歴

 和銅7(714)年に広嗣が生まれた時、父宇合は21歳でした。当時まだ存命であった不比等の位階は正二位で、宇合は蔭位で正六位下に叙されたばかり。2年後の霊亀2(716)年に遣唐副使に任命され、従五位下に昇進します。霊亀3(717)年7月頃に入唐し、養老2(718)年10月に帰国。翌養老3(719)年正月には常陸守に任命され、同年7月からは安房・上総・下総の3国を監督する按察使を務めました。このように宇合は都を離れていたので、広嗣は幼少期に父とはあまり接していなかったと思われます。

 広嗣が物心ついた頃、宇合は朝廷の人事をつかさどる式部省の長官、式部卿となります。文官としてのキャリアを積み重ねる一方で、武官としても活躍。神亀元(724)年に持節大将軍に任命され、陸奥国の蝦夷反乱を平定するという任務を成し遂げます。当時11歳だった広嗣は、文武両面で活躍する父の姿を見て、大いに刺激を受けたことでしょう。

 宇合はその後も長く式部卿を務め、神亀3(726)年から難波宮造営の責任者を兼任。神亀6(729)年に藤原四兄弟が長屋王を自害に追い込んだ事件、「長屋王の変」では軍事面で主要な役割を果たしました。天平3(731)年8月、宇合は弟の麻呂とともに参議に昇進し、藤原四兄弟の黄金時代が始まります。広嗣は16~18歳という多感な時期に、父親たちが政権を握っていくさまを見ていたわけです。「運命を変えるには行動を起こすしかない」と思ったかもしれません。同時に明るい将来が見えていたことでしょう。

 宇合は天平4(732)年に西海道節度使に任命され、九州に赴任します。そして5年後の天平9(737)年8月5日、天然痘に感染して44歳で亡くなりました。最終官位は正三位参議式部卿兼大宰帥。大宰帥とは大宰府の長官のことです。天然痘のパンデミックにより藤原四兄弟は全滅。広嗣の明るい未来は一気に暗転していきます。広嗣が24歳の時でした。

式部少輔と大養徳守を兼任

 父宇合が亡くなってから2ヶ月弱が過ぎた天平9(737)年9月28日、広嗣は従五位下に叙されます。役職は式部少輔。父が長官を務めた式部省の官職です。天然痘パンデミックでは藤原四兄弟だけでなく、政府上層の幹部が多数亡くなっていました。人事の立て直しは急務であり、広嗣は多忙な日々を送っていたことでしょう。9月28日の叙位では従六位上から一気に三階上がっているので、そこでの仕事ぶりが高く評価されたものと思われます。翌年の天平10(738)年4月22日、式部少輔との兼任で大養徳守に任命されました。

 大養徳国とは旧大倭国のことで、天然痘パンデミックの収束を願って改称されたばかりでした。天平9(737)年12月27日、聖武天皇は自らの不徳によって災異が起きたとする災異思想に基づいて、徳を修養することで収束をはかろうという意図を込めて大養徳国と改めました。その5ヶ月後に大養徳守に任命された広嗣は、国名が改められてから最初の守だったと思われます。

 しかも、大養徳国の領域は現在の奈良県で、首都の平城京もその範囲内です。大・上・中・下に分かれていた国の等級の中で最高の「大」に分類されており、大養徳守の相当位は従五位上。広嗣の位階は従五位下ですので、それよりも上の役職です。広嗣はとても大きな期待をかけられて、大抜擢されたのではないでしょうか。

大宰府へ左遷

 しかし、それから1年も経たない天平10(738)年12月4日、広嗣は大宰少弐に任命されます。大宰府は九州の9カ国と壱岐・対馬からなる西海道を管轄する巨大な役所であり、父宇合も長官を務めた場所。しかも広嗣が任命された時は長官の大宰帥が欠員で、大宰大弐に任命された高橋安麻呂が赴任を拒否したとか。広嗣は実質的に大宰府のトップ、またはNo.2となるわけで、決して悪い人事ではありませんでした。しかし、大宰少弐に相当する位階は従五位下。広嗣の位階には合いますが、従五位上の大養徳守よりは下。都から遠く離れた地であり、広嗣にとっては左遷としか感じられませんでした。

 また、藤原四兄弟のあとに政権を握った橘諸兄は、藤原一族を排除しようとしていました。天然痘パンデミックは藤原氏一族にとっては悲しい出来事でありましたが、おそらくその他の氏族、いや国民にとっても愉快な出来事であったのではないでしょうか。もし総理大臣や官房長官がみんな兄弟だったら、この国終わってるなって思いますよね。それが一気に全員死んだのですから、ざまあって感じだったのかもしれません。

 橘諸兄も例外ではなく、唐から帰国した玄昉と下道真備を重用し、ここぞとばかりに藤原一族を排除していきました。広嗣が大宰府に赴任した直後には、藤原一族と関係が深い石上乙麻呂と久米若売との姦通事件が発覚。石上乙麻呂は広嗣の母国盛の兄弟で、久米若女は父宇合の妻の一人です。この事件は乙麻呂を政権から遠ざけるために、橘政権がでっち上げたという説もあります。あからさまな藤原排除の流れがあったわけで、広嗣もまた政府中央から遠ざけられてしまったのでしょう。

広嗣が大宰府で挙兵するまで

 大宰府での仕事ぶりは記録にありませんが、おそらく真面目に働いていたものと思われます。まだ25歳ですので、待っていれば再びチャンスが訪れるかもしれません。戦争に出たこともなければ、大軍をまとめられるほどの器も人望もなかったでしょう。もし自分が九州の地元豪族だったら、いくら有能で仕事ができたとしても、25歳の若造に命を預けるなんてごめんです。広嗣自身もそれはわかっていて、さすがに朝廷と争おうなどとは思っていなかったのではないでしょうか。

 しかし広嗣のモヤモヤが晴れることはなく、とうとう爆発してしまいます。天平12(740)年8月某日、日本から新羅に派遣されていた遣新羅使が、新羅に追い返されて帰国するという事件が起こりました。新羅は長らく日本の属国として朝貢させていましたが、日本に対して強い態度を見せてきたのです。

 広嗣は新羅に対する外交政策に不満を持っていました。藤原四兄弟は新羅に軍事的な圧力をかけていましたが、橘政権に変わると一転。疫病被害からの日本復興を優先するため、軍事力を縮小させていたのです。そんな折に起きたこの事件。大宰府にて国際情勢に敏感だった広嗣は、「日本がナメられている」と国家の危機を感じたのでしょう。橘政権で重用されていた玄昉と下道真備を討ちたいという上奏分を朝廷に送ります。天平12(740)年8月29日のことでした。

反乱を起こすも敗戦、処刑

 広嗣が送った上奏文は5日後の9月3日に都へ届きました。要求は玄昉と真備の除去でしたが、その内容は橘政権だけでなく聖武天皇をも痛烈には批判する過激なものでした。聖武天皇は激怒し、広嗣の討伐を命令。蝦夷と長年にわたって戦い抜いてきた百戦錬磨の武将、大野東人を大将軍に任命し、諸国に計1万7000人の兵を集めさせました。広嗣も大宰府諸国の兵を集めて戦いに挑みますが、10月9日の板櫃川の戦いで敗戦。新羅への逃走を図るも10月23日に捕らえられ、11月1日松浦の地で処刑されました。享年27歳。かつて将来を期待されていた若きエリートは、国家の反逆者として最期を迎えたのでした。