鴨長明『発心集』現代語訳|巻4-8「ある人、臨終に言わざる遺恨事」

年ごろ、相知る人ありき。

原文

 としごろ、あひ知る人ありき。過ぎぬる建久けんきゅうのころ、重き病を受けたりける時、たのみたりけるひじりを呼びければ、行きて、ねんごろに見あつかひけり。

 かくて、のどかにこの人のさまを見るに、病のありさま、いと心得ず。日にそへて弱り行くを、みづからは、死ぬべしとも思ひもよらず。あたりの女房なんど、まして、かけても思ひよらざりけり。

現代語訳

 長年にわたって親しくしていた知人がいた。去る建久の時代、重い病を患った時、頼りにしていた高僧を呼ぶとやって来て、丁寧に看護された。

 そうして、落ち着いてこの人の様子を見ると、病気の状態はまったくわけがわからない。日に日に弱っていくのを、本人はまさか死ぬだろうなんて思いもしていない。周りの女中などはまして、少しも思っていない。


語釈
  • としごろ【年頃】:長年。
  • あひしる【相知る】:見知っている。親しく付き合う。
  • けんきゅう【建久】:1190~1199年の元号。
  • みあつかふ【見扱ふ】:世話をする。看護する。
  • たのむ【憑む・頼む】:頼りにする。
  • ひじり【聖】:聖人。高僧。特の高い立派な人。
  • のどか:落ち着いている。平然としている。
  • こころう【心得】:事情がわかる。理解する。
  • にょうばう【女房】:貴族などの家に仕える女性。
  • かけても:少しも。まったく。

この人、いとけなき子あまたある中に、

原文

 この人、いとけなき子あまたある中に、ことかなしうなんするむすめ独りありける。子どもの母は先立ちて隠れにしかば、それを深く嘆きて、また、こと人をも見ず。このむすめの、かたがた、みなし子になれることをあはれみつつ、このほどむこ取らんとて、さまざまいとなみ、沙汰さたしければ、さやうのこと、病む病むもなほおこたらず。このひじり、いとあさましく愚かにもあるかなと見れど、なのめなるほどは、人をはばかりてでず。

現代語訳

 この人には幼い子供がたくさんおり、その中に特にかわいがっている娘が一人いた。子どもたちの母親が先立って亡くなると、そのことを深く嘆いて別の妻を迎えることもなかった。この娘がどの道、孤児になることを心配して、この頃は婿を取ろうとさまざまな準備をし、手配していた。そのようなことは、病気になってもなお怠らなかった。この高僧は「たいそう驚きあきれるし、愚かだなあ」と見ていたが、容態が落ち着いている間は、周りの人を気にして言い出せなかった。


語釈
  • いとけなし【幼けなし】:幼い。
  • ことひと【異人】:ほかの人。別人。
  • かたがた【方方】:いずれにしても。どっちみち。
  • いとなむ【営む】:精を出す。準備する。
  • さた【沙汰】:手配。
  • あさまし:驚きあきれるさまだ。嘆かわしい。
  • なのめ【斜め】:平凡だ。ふつうだ。
  • はばかる【憚る】:気がねする。遠慮する。

十日ばかりありて、まめやかに重くなりぬる後、

原文

 十日ばかりありて、まめやかに重くなりぬる後、ぬしもやうやう心細げに思ひ、人もおのづからのこともやなんど思へるしきを見て、ひじりはばかりながら、だいの身は思はずなるものぞ。あとのことなど、かねて定め置き給へかしなど、でたるに、まことにさるべきこととふを聞きて、幼き子ども、あたりの人まで、さと打ち泣くしき、いとはかなげなり。今夜こよひは暗し。明日こそはとのどむるほどに、その夜よりことに重くして、いたく苦しげなり。

現代語訳

 10日ほど経って、本格的に病状が重くなった後、主もだんだん心細く思うようになってきて、周りの人も万が一のこともあろうかなどと思っている様子を見て、高僧が恐れ慎みながら「無常の世のはかない身は思いがけずなるものです。跡のことなど、あらかじめ定めておきましょう」などと言い、主が「本当にそうすべきことだ」と言うのを聞いて、幼い子どもも周りの人も一斉に声を上げて泣くようすはとてもはかない。「今夜はもう暗い、明日こそは」と気を落ち着けたところ、その晩より特に重態となり、たいそう苦しそうになった。


語釈
  • まめやか【忠実やか・実やか】:本格的なようす。
  • おのづから【自ら】:万一。
  • うだいのみ【有待の身】:〘仏教語〙無常の世のはかない身。
  • さと【颯と】:一斉に。どっと。
  • うちなく【打ち泣く】:声をあげて泣く。
  • のどむ【和む】:気を落ち着ける。静める。

人々驚きて、処分のやうを申し合はせて、

原文

 人々驚きて、処分そうぶんのやうを申し合はせて、定め給へ。御跡ゆくへなくなりぬべしと、ひじりすすむ。まことにとて、いかやうにか侍るべきとへば、あるべきやうはとて、苦しげなるを念じて、こまごまと一時ばかりひ続くれど、舌も垂りにけるにこそ、何とも聞き分け侍らずとへば、さらば紙と筆とを給へ。あらあら書き付けんとふ。すなはち取らせたれど、手もわななきて、え書かず。わづかに書き付けたるは、たがはぬみみずがきなり。

現代語訳

 人々は驚いて、「財産分与の件を申し合わせてお決めください。お跡をどうしていいかわからなくなってしまいます」と高僧を促す。「確かにその通りです。どのようにしましょうか」と言うと、「遺産はこのように」と苦しいのをこらえて細かく2時間ほど言い続けるけれど、舌も回らないので「何とも聞き分けられません」と言えば、「では紙と筆を。ざっと書くだろう」と言う。すぐに取らせたけれど、手も震えて書くことができない。わずかに書きつけたのは、まったくミミズのようなへなへなな字であった。


語釈
  • そうぶん【処分】:財産・遺産などを分与すること。
  • ゆくえなし【行く方無し】:どうしていいかわからない。
  • こまごまと【細細と】:こまかに。
  • ひととき【一時】:約2時間。(1日を12等分したうちの1区分)
  • あらあら【粗粗】:ざっと。だいたい。。
  • わななく【戦慄く】:ふるえる。
  • たがふ【違ふ】:くいちがう。一致しない。ふつうでなくなる。
  • みみずがき【蚯蚓書き】:みみずがはい回ったような下手な字。

すべき方なくて、姫君のめのと、

原文

 すべき方なくて、姫君のめのと、日ごろおぼしたりけるおもむきは、しかじかとふままに、はからひ書きて見ゆれど、かしらを振りて、とく引きり給へとへば、引きりつ。すべて力及ばず。さすがに心はたがはぬにや。さまざま思ふことを、え云ひあらはさずなりぬるを、心憂く思へるしき、あはれに悲しきことかぎりなし。夜の中ばかり、これほどの心あるやうに見えける。明けぬれば、物も覚えず。ことよろしきほどは、処分のことまぎれにけり。今はとて、念仏すすむれど、ゆひかひなきさまなり。

 かくて、明くる日のの時ばかりに、大きに驚けるしきにて、二度ふたたびばかりあめきて、やがて息絶えぬるは、もし、恐しきものなんどの目に見えけるにや。

現代語訳

 どうしようもなく、姫君の乳母が「日ごろお思いになられていた趣旨はしかじか」と言うままに考えを書いてみるけれど、首を振って「すぐに破りなさい」と言うので引き破った。まったくどうしようもない。とはいえ意識ははっきりしているようだ。いろいろ思っていることを言い表せなくなったのを無念に思っているようすは、限りなく気の毒で悲しい。夜中のうちは、それなりに意識があるように見えた。夜が明けると、分別がつかないようす。容態が落ち着いた時は、相続のことは紛れてしまった。いよいよ臨終かと念仏を促すけれど、どうしようもない状態である。

 こうして、明くる日の午前10時頃、大きく驚いた様子で二度ほど叫び声をあげてまもなく息絶えたのは、もしかすると恐ろしいものか何かが目に見えたのだろうか。


語釈
  • はからひ【計らひ】:考え。処置。
  • とく【疾く】:早く。急いで。
  • さすがに:そうはいってもやはり。
  • ものもおぼえず【物も覚えず】:どうしたらよいかわからない。分別がつかない。
  • ことよろし【事宜し】:たいしたことではない。
  • いまは【今は】:臨終。
  • かひなし【甲斐無し・効無し】:ききめがない。むだである。どうしようもない。
  • みのとき【巳の時】:午前10時頃。
  • あめく【叫く】:わめく。叫ぶ。

このこと、遠きほどなれば、

原文

 このこと、遠きほどなれば、後に伝へ聞きて、今一度ひとたびあひ見ずなりぬることを口惜しく思ひけるほどに、廿日ばかり過ぎてかの人を夢に見る。なべらかなる、常のさまに変らず、対面したることをよろこべるしきながら、物をばはず。かくして、たた向ひ居たりと思ひて覚めぬ。すなはち、うつつにその形あざやかなり。やうやうほどるままに、薄墨うすずみになり行く。はてには、人の形ともなく、けぶりのやうに見えて、消え失せにき。その面影、今に忘れがたくなん侍る。

現代語訳

 このことは遠くでの出来事であった。後で伝え聞いて、もう一度会えなかったことを残念に思っていたところ、20日ほど過ぎてその人を夢に見た。なめらかな狩衣姿はいつもと変わらず、対面したことを喜んでいる様子ではあるが、何も話さない。こうして、ただ向かいあっているだけかと思ったら目が覚めた。その時、現実に戻ってもその姿は鮮明だった。だんだん時間が経つにつれて、うっすらとなっていく。最後には人の形もなく、煙のように消えてなくなった。その面影は、今も忘れがたく残っています。


語釈
  • ほい【布衣】:布製(麻製)の狩衣。貴族が日常着る狩衣。
  • うつつ【現】:現実。

おほかた、人の死ぬるありさま、

原文

 おほかた、人の死ぬるありさま、あはれに悲しきこと多かり。物の心知らん人は、常に終りを心にかけつつ、苦しみ少なくして、善知識に会はんことを、仏菩薩に祈り奉るべし。もし、悪しき病をうけつれば、その苦痛に責められて、臨終思ふやうならず。終り正念しやうねんならねば、またいちの行ひもよしなく、善知識のすすめもかなはず。たとひもし、臨終正念しやうねんなれども、善知識の教ふるなければ、またかひなし。生涯ただ今を限りと思ふに、恩愛おんあいの別れといひ、名利のしふといひ、見るもの聞くものにふれつつ、心肝しんかんをくだかずといふことなし。いつの心のひまにか、浄土を願はんとする。

現代語訳

 おおかた、人が死ぬようすは気の毒で悲しいことが多い。物事の道理をわきまえている人は、いつも最期を心にかけることで苦しみを少なくして、善知識に会うことを仏菩薩にお祈り申し上げるだろう。もし、悪い病に冒されれば、その苦痛に責められて臨終が思うようにならない。臨終の際に心の乱れがあれば、一生の修行も報われず、善知識のお言葉もかなわない。たとえもし、臨終の際に心穏やかであっても、全知識の教えがなければそれもまた無益である。生涯がただ今世限りだと思うと、愛していた人との別れといい、名誉や利益への執着心といい、見るもの聞くものにふれる度にあれこれと思い悩まないことはない。いったいどの心のすき間に浄土を願えようか。


語釈
  • ぜんちしき【善知識】:〘仏教語〙人を教化して、仏道に導き入れる高徳の僧。
  • しやうねん【正念】:〘仏教語〙仏道修行の基本徳目である「八正道」の一つ。正常で乱れ心のないこと。
  • よしなし【由無し】:かいがない。無益だ。
  • くだく【砕く】:あれこれと思い悩む。
  • ひま【隙】:すき間。

しかるを念仏功つもり、運心年深き人は、

原文

 しかるを念仏功つもり、運心うんしん年深き人は、ゆゑに終り正念しやうねんにして、必ず善知識に会ふ。耳には誓願のほかのことを聞かず、口には称名のほかのことを言はず。最初引摂いんぜふすれば、妻子の別れもなぐさみぬ。五妙境界を思へば、しふもあらず。すずろに進んで、つひに往生をとぐるなり。あるひは、かねて死期を知り、心もとなく待つこと、国を出づべき人の、その日を望むがごとしなんど言へり。

 いかにいはんや、聖衆しやうじゆ来迎らいかうにあづかりて、楽の声を聞き、たへなる香をかぎ、まさしく尊容を見奉る時、心の内の楽しみ、説きつくすべからず。かかれば、たとひ道心少なくとも、終りを恐れんためにも、いかが往生を願はざらん。

現代語訳

 それなのに念仏の功徳を積み上げ、何年も深く心を集中させてきた人は、仏のご加護ゆえに臨終は心穏やかで必ず善知識に会う。耳は誓願以外のことを聞かず、口は称名以外のことを言わない。最初引摂を期待するので、妻子との別れも慰められる。浄土を思えば、汚れた現世への執着もない。心のままに進み、最後には往生を遂げるのである。あるいは、事前に死期を知ってまだかまだかと待つことは、国を出るべき人がその日を待ち望むようであるなどと言う。

 ましてや、聖衆のお迎えにあずかり、音楽の音を聞き、神秘的な香りをかぎ、まさしく仏のお姿を拝見する時、心のうちにある嬉しさは語り尽くせないほどである。こういうわけであるから、たとえ仏道心が少なくても、死を恐れようとも、どうして往生を願わずにいられようか。


語釈
  • しかるを【然るを】:そうであるのに。
  • うんしん【運心】:〘仏教語〙あることに心を集中させること。
  • かび【加被】:〘仏教語〙仏の加護。
  • せいぐわん【誓願】:〘仏教語〙仏に誓いを立てて成就を願うこと。
  • 称名【しようみやう】:〘仏教語〙仏の名を唱えること。
  • いんぜふ【引摂】:〘仏教語〙阿弥陀仏が念仏を唱える人の臨終に現れて極楽浄土に導くこと。
  • ゑど【穢土】:〘仏教語〙汚れたこの世。
  • すずろ【漫ろ】:わけもなく心が動いたり、事が進んだりするさま。むやみやたらなさま。
  • こころもとなし【心許ない】:待ち遠しい。
  • しやうじゆ【聖衆】:〘仏教語〙極楽浄土にいる諸菩薩。