紫式部日記「土御門邸の秋(秋のけはひ)」
秋のけはひ入り立つままに
原文・語釈
秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、己がじし色づきわたりつつ、
- 入り立つ:(季節などが)来始める。立ちそめる。
- 土御門殿:藤原道長の邸宅。中宮彰子が出産のため滞在中。
- 梢:木の枝の先。
- 遣水:庭に造られたせせらぎ。
- 己がじし:それぞれに。めいめいに。互いに。
- 色づきわたる:一面に色づく(紅葉する)
現代語訳
秋の気配が立ちそめるにつれて、土御門邸の雰囲気は言い表しようもなく美しい。池の周りの木の枝先ども、庭園を流れるせせらぎのほとりの草むら、それぞれが一面に色づいて、
大方の空も艶なるにもてはやされて
原文・語釈
大方の空も艷なるにもてはやされて、不断の御読経の声々あはれ増さりけり。
- 大方:あたり一帯。大部分。
- 艷:美しく趣のあるさま。
- もてはやす:引き立たせる。美しく見せる。
- 不断の御読経:安産祈願などのために、24時間絶え間なく行われる読経。
現代語訳
あたり一帯の秋空も鮮やかであるのに引き立てられて、安産を祈願する不断の御読経の声々もいっそう心に響くのであった。
やうやう凉しき風のけはひに
原文・語釈
やうやう凉しき風のけはひに、例の絶えせぬ水の音なひ、夜もすがら聞き紛はさる。
- やうやう:だんだん。しだいに。
- 例の:いつもの。あの。いつものように。
- 音なひ:物音。響き。
- ⋯すがら:初めから終わりまでずっと。⋯の間じゅう。
- 聞き紛はす:入り混じって区別がつかないように聞こえる。
現代語訳
だんだん涼しい夜風の気配となり、いつものように絶えることのないせせらぎの音の響きが、夜の間ずっと入り混じって聞こえる。
御前にも、近うさぶらふ人々
原文・語釈
御前にも、近うさぶらふ人々はかなき物語するを聞こしめしつつ、悩ましうおはしますべかめるを、さりげなくもて隠させたまへる御有様などの、いとさらなることなれど、
- 御前:天皇や貴人の敬称。中宮(彰子)様。
- 人々:女房たち。
- はかなし:なんということもない。たわいない。
- 物語:雑談。世間話。
- 悩まし:(出産を控えて)体がつらい。気分がすぐれない。
現代語訳
中宮様にも、お側でお仕えしている女房達がたわいない世間話をしているのをお聞きになりながら、ご出産を控えてお体が重たいでしょうに、さりげなくそっと隠していらっしゃるご様子などの、特段言う必要もないことではあるけれど、
憂き世の慰めには
原文・語釈
憂き世の慰めには、かかる御前をこそ尋ね参るべかりけれと、現し心をば引き違へ、たとしへなくよろづ忘らるるも、かつはあやし。
- 憂き世:つらくはかない世の中。苦しみの多い世の中。俗世間。
- 慰め:気分を晴らすもの。
- 参る:お仕えする
- 現し心:平常の安らかな心。
- 引き違ふ:うって変わる。
- たとしへなし:たとえようがない。
- あやし:不思議だ。
現代語訳
つらい現実の慰めには、このようなお方をこそ求めてお仕えするべきなのだと、普段の心とは打って変わって、たとえようもなくすべてを忘れてしまうのも、ある意味では不思議なことである。
まだ夜深きほどの月さし曇り
原文・語釈
まだ夜深きほどの月さし曇り、木の下小暗きに、「御格子参りなばや」「女官はいまださぶらはじ」「蔵人参れ」など言ひしろふ程に、
- 夜深し:夜がまだ深く、夜明けまでまだ間があって暗い。深夜である。
- 小暗し:ほの暗い。薄暗い。
- 御格子参る:貴人の部屋の格子を、お上げする。あるいは、お下げする。
- 蔵人:女蔵人の略。中宮に仕えた下級女官で、宿直も務める。
- 言ひしろふ:言い合う。語り合う。
現代語訳
まだ夜が深い時刻の月に雲がかかり、木の下は薄暗いのに、「御格子をお上げしたら?」「女官はまだ出仕してないわよ」「蔵人がやってよ」などと言い合っているうちに、
後夜の鐘うち驚かして
原文・語釈
後夜の鐘うち驚かして、五壇の御修法、時はじめつ。我も我もとうち上げたる伴僧の声々、遠く近く聞きわたされたる程、おどろおどろしく尊し。
- 後夜:午前2時ごろから午前6時ごろまで。
- 五壇の御修法:⦅仏教語⦆不動明王を本尊として行う密教の祈祷。国家の重大事に行われる。
- 伴僧:修法などの時に導師に従う下級の僧。
- おどろおどろし:驚くほど異様ではなはだしい様子。
現代語訳
後夜の鐘を打ち鳴らして、定刻の五檀の御修法が始まった。我も我もと声を張り上げた伴僧の声々が、遠くからも近くからも耳に響きわたる様子は、驚くほど異様ではなはだしく尊い。
観音院の僧正、東の対より
原文・語釈
観音院の僧正、東の対より、二十人の伴僧を率ゐて、御加持参りたまふ足音、渡殿の橋のとどろとどろと踏み鳴らさるるさへぞ、ことごとのけはひには似ぬ。
- 観音院:山城国(現京都府)岩倉の大雲寺内にあった院。
- 観音院の僧正:観音院の権僧正勝算。
- 加持:⦅仏教語⦆密教で、仏の加護を祈る儀式。
- 渡殿:渡り廊下。
- とどろとどろ【轟轟】:大きな音がとどろきわたるさま。ごうごう。ごろごろ。
現代語訳
観音院の僧正が東の対より20人の伴僧を率いて、中宮様への御加持に参られる足音、渡り廊下の橋をとどろとどろと踏み鳴らされる響きさえも、他の行事の気配とは違う。
法住寺の座主は馬場殿
原文・語釈
法住寺の座主は馬場殿、浄土寺の僧都は文殿などに、
- 法住寺:藤原為光が建立した寺。
- 座主:一山の寺務を統括する最高位の僧職。
- 法住寺の座主:法住寺に座主はなく、「法性寺」の座主慶円のことか。
- 馬場殿:馬場に建てられた馬見所。
- 浄土寺:山城国愛宕郡、現在の銀閣寺の地。
- 僧都:僧正に次ぐ位。
- 浄土寺の僧都:浄土寺の創始者明救。
- 文殿:書庫。馬場殿とともに僧の休息所にあてられていた。
現代語訳
法住寺の座主は馬場殿、浄土寺の僧都は文殿などへ、
うち連れたる浄衣姿にて
原文・語釈
うち連れたる浄衣姿にて、ゆゑゆゑしき唐橋どもを渡りつつ、木の間を分けて帰り入るほども、はるかに見やらるる心地してあはれなり。斉祇阿闍梨も、大威徳を敬ひて腰をかがめたり。人々参りつれば夜も明けぬ。
- うち連れたる:お揃いの。
- 浄衣:僧の着る白い清浄な衣服。
- ゆゑゆゑし【故故し】:品があって重々しい。
- 斉祇阿闍梨:藤原道綱の次男。
- 大威徳:大威徳明王。五大明王の一つ。
現代語訳
揃いの浄衣姿で格式高い唐橋を渡りつつ、木々の間を分けて立ち戻る様子も、はるか遠くに見えるような心地がして感慨深い。斉祇阿闍梨も、大威徳明王を敬って腰をかがめている。女房たちが参上すると夜も明けた。