鴨長明『方丈記』のあらすじをわかりやすく解説

「人も住まいも消えては生まれ、水の泡のようにはかない」
「現世は仮の世に過ぎないのに、何に執着しようというのか」
「生きづらい都を離れて、山中で独り穏やかに暮らすのが一番だ」

 とか言いつつ、都のことが気になって仕方がない鴨長明。俗世が嫌になって出家したのに、仏道の修行は中途半端。心は煩悩まみれで、結局は「方丈の庵」での暮らしに執着している自分⋯⋯。そんな人間らしい鴨長明が、自分の生き方や考え方をつづったのが『方丈記』です。

「今、生きづらさを抱える人にぜひ読んでほしい!」

『方丈記』のあらすじをわかりやすく解説します。

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方丈記のあらすじ

【冒頭】無常の世

 ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。

『方丈記』を読んだことがなくても、この書き出しだけは知っているという方も多いのではないでしょうか。『方丈記』の冒頭では、移り変わってゆく世の中を川の流れに例え、人と住まいは水の泡のようだと表現しました。

『方丈記』は「無常観」を表した作品だとよくいわれます。「無常観」とは、世の中にあるすべてのものは常に変化しているという仏教の思想です。鴨長明が生きた時代は、貴族の世から武士の世へと変わる激動の時代。「源平合戦」という名の戦争で平安京は荒れ果て、「五大災厄」と呼ばれる大災害も立て続けに重なる、まさに「無常の世」だったのです。

冒頭のあらすじ

 川の流れは途絶えることがなく、水は常に移り変わっている。消えては浮かび上がる水の泡は、いつまでも残っていることはない。世の中にある人も住まいも、これと同じようだ。

 平安京の都にはたくさんの家が立ち並んでいるけれど、昔から残っている家はほとんどない。去年焼けてしまった家もあれば、今年新しく建てられた家もある。その家に住む人も同じで、昔から知っている人は20~30人に1人か2人。朝に死ぬ人もいれば、夕方に生まれる人もいる。この世の定めは、まさに水の泡のようだ。

【前半】五大災厄

『方丈記』は、日本最古の「災害文学」ともいわれています。その理由は、「五大災厄」と呼ばれる災害について、災害発生時の様子や被害状況が詳細に書かれているからです。

五大災厄
  1. 安元3(1177)年:安元の大火
  2. 治承4(1180)年:治承の辻風
  3. 治承4(1180)年:福原遷都
  4. 養和元(1181)年:養和の飢饉
  5. 元暦2(1185)年:元暦の大地震

 例えば「安元の大火」では、「公卿の家、十六焼けたり」と、具体的な数を示しています。「福原遷都」の際には、新都福原を訪問。長明は「たまたま用事があって」と前置きしていますが、どうしても現地を見たかったんだと思います。自分の目で見て確かめたことだからこそ、リアルに描写できたのでしょう。「元暦の大地震」に至っては、原文そのままでも地震の凄まじさが伝わってきます。

 山は崩れて河をうづみ、海はかたぶきてくがをひたせり。土裂けて水湧きで、いはほ割れて谷にまろる。なぎさぐ船は波にただよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどはす。都のほとりには、ざいざいしよしよだうしやたふめう、ひとつとしてまたからず。あるいは崩れ、或はたふれぬ。ちりはひ立ちのぼりて、さかりなるけぶりのごとし。地の動き、家の破るる音、いかづちにことならず。

『方丈記』の前半は、このような災害の記述が続きます。そして、世の中が生きづらいのも、自分の身と住まいがはかないのも、これまでに述べてきた災厄に似ていると総括。ましてや、場所や境遇によって心を悩ませたことは数え切れないほど多いと、テーマは人の生き方へと移っていきます。

前半のあらすじ

 安元3年4月28日、平安京の3分の1が焼けてしまうほどの大火があった。立派な屋敷も財産も、一夜にして灰と化してしまった。また、治承4年4月ごろ、巨大な竜巻が発生。多くの家が吹き飛ばされ、家財はことごとく空に巻き上げられた。

 治承4年6月ごろには、福原への遷都が行われた。福原を訪れてみると、土地が狭くて都を建設するには足りない。波の音がうるさくて、潮風もひどい。結局、新都が完成することはなく、その年の冬には平安京へ戻ってきた。

 養和の頃には、2年間にわたって飢饉が続いた。餓死した人の死体が道端にあふれ、悪臭が満ちている。食糧がなければ、お金に価値はない。家財を捨てるように売り払おうにも、目をとめる人はいなかった。死者数は42,300人余り。悲惨な出来事であった。同じ頃に大地震も発生。山は崩れ、海からは津波が襲った。すさまじい地震であったのに、月日が経つと忘れ去られる。今となっては口に出す人もいない。

 総じて、世の中が生きづらく、自分の身と住まいがはかないのは、これまでに述べてきた災厄に似ている。ましてや、場所や境遇によって、心を悩ませたことは数え切れないほど多い。世に従うのは苦しい。従わなければ狂人扱い。どこでどう生きれば、心を休ませることができるのだろうか。

【後半】方丈の庵

『方丈記』の後半は、長明自身の過去の話から始まります。長明は、今や世界遺産に登録されている「下鴨神社」の神官の子として生まれました。下鴨神社は当時から超有力な神社であり、父親はその最高責任者である正禰宜という立場。要するに、長明はスーパーおぼっちゃまくんだったのです。住まいは立派な豪邸だったことでしょう。しかし、色々あって後を継ぐことはできず、色々と嫌になって出家し、晩年は「方丈の庵」で暮らしました。

「方丈」とは、1丈四方のこと。1丈は約3mですので、方丈は約9㎡。5畳ほどの広さです。狭いとはいえ寝床があり、仏道や音楽に打ち込めるスペースもあり、一人で暮らすには十分。誰にも邪魔されない気ままな暮らしを、長明はとても気に入っていたのでしょう。『方丈記』の後半は、前半とは打って変わって前向きに感じられる文章です。特に「方丈の庵」についての描写は、明らかにテンションが上がっている様子が伝わってきます。

後半のあらすじ

 私は父方の祖母の家を受け継いでいたけれど、色々あっていられなくなってしまった。30歳を過ぎて、自分で家を建てるも、大きさは10分の1。吹けば飛ぶような住まいである。その後の人生も、思い通りにならないことばかり。50歳で出家して、大原山に隠れ住むも、いたずらに5年の月日を過ごしただけであった。

 それからまた改めて、さらに100分の1の大きさの庵を造り、日野山の奥に隠れ住んだ。広さは方丈(約5畳)。解体すれば車2台で運べるから、何か嫌なことがあってもすぐに引っ越せる。春は藤波、夏はホトトギス、秋はひぐらし、冬は雪を楽しむ。念仏に身が入らない時は、気ままにサボり、琵琶を弾く。天気が良ければ山を登り、四季折々の景色を楽しむ。静かな夜は故人をしのび、袖を潤す。

 日野山に住み始めてはや5年。この間に、都では多くの方が亡くなったそうだ。火事で焼けた家はどれほどあるだろうか。方丈の庵はそんな心配がない。人はみな、裕福な人と親しくなろうとする。思いやりのある人を友とするわけではない。だったらもう、自然や音楽を友としよう。人を雇うのも気を使うし、自分でやった方が楽。自分の手で働き、自分の足で歩く。健康にもいい。

 世界は心の持ちようで変わる。心が穏やかでなければ、いくら財産があっても幸せを感じられない。私は今、この庵での暮らしを愛している。でも、住んでみないことには誰にもわからないだろう。

【終章】心に問う

 人生の終盤で理想の生活を見つけた長明ですが、仏道の修行は中途半端で、都のことも気になって仕方がありません。結局、心は煩悩まみれで、今の暮らしに執着しているだけじゃないかと、自省の弁を述べます。

終章のあらすじ

 仏の教えでは、何事にも執着してはいけない。今の暮らしにこだわるのは、このぐらいにしておくべきだろう。

 自分自身の心に問う。世を捨てて、山に入ったのは、心を整えるためではなかったのか。お前は姿こそ僧であっても、心は煩悩まみれではないか。まさかもう、私の心は煩悩に汚され過ぎて、狂ってしまったというのか。心はもう、それ以上は答えない。ただ勝手に舌が動いて、念仏を2~3回唱えるだけであった。

 時に、建暦の2年、3月の末ごろ、僧の蓮胤、外山の庵にてこれを記す。