源氏物語「桐壺」(5)長恨歌の御絵|語注・原文・現代語訳

楊貴妃のかたち

命婦は、「まだ大殿らせたまはざりける」と

原文

 命婦みやうぶは、「まだ大殿籠おほとのごもらせたまはざりける」と、あはれに見たてまつる。まへ壺前栽つぼせんざいのいとおもしろきさかりなるを御覧ずるやうにて、忍びやかに心にくき限りの女房四五人さぶらはせたまひて、御物語りせさせたまふなりけり。このごろ、明け暮れ御覧ずる長恨歌ちやうごんかの御亭子院ていじのゐんのかかせたまひて、伊勢いせ貫之つらゆきに詠ませたまへる、大和やまとことをも、唐土もろこしの歌をも、ただそのすぢをぞ、枕言まくらごとにせさせたまふ。

語釈
  • おほとのごもる【大殿籠る】:おやすみになる。
  • つぼせんざい【壺前栽】:中庭に植えた草木。中庭の植え込み。
  • さかり【盛り】:勢いの盛んなさま。まっ盛り。
  • しのびやか【忍びやか】:人目につかないようにするさま。ひそやか。こっそり。
  • こころにくし【心憎し】:心ひかれる。奥ゆかしい。
  • このごろ【此の頃】:この数日の間。最近。近ごろ。
  • あけくれ【明け暮れ】:毎日。
  • ちゃうごんか【長恨歌】:白居易の漢詩。玄宗皇帝と楊貴妃との愛の悲劇をうたう。
  • ていじのゐん【亭子院】:宇多天皇の譲位後の後院。
  • いせ【伊勢】:『古今集』の歌人。女性。
  • つらゆき【貫之】:紀貫之。『古今集』の撰者・歌人。多くの屏風歌を作製した。
  • やまとことのは【大和言の葉】:和歌。
  • もろこし【唐土・唐】:中国の古い呼び名。
  • まくらごと【枕言】:いつも口にする話題。口癖のことば。

現代語訳

 宮中に戻った命婦は、帝がまだ御寝所に入っておられないのを気の毒に思います。帝は大変美しい盛りを迎えている中庭の草木の秋花を御覧になるふりをして、奥ゆかしい女房4~5人を仕えさせて、ひそやかにお話をしておられました。ここ数日の間、明けても暮れても御覧になっているのは、長恨歌の屏風絵。宇多天皇が絵師に描かせて、伊勢や貫之に歌を添えさせた絵です。その和歌にしても漢詩にしても、ただもう恋人との死別を悲しむ歌ばかりを、口ぐせのように話題にしていらっしゃいます。

いとこまやかにありさま問はせたまふ

原文

 いとこまやかにありさまはせたまふ。あはれなりつること忍びやかにそうす。御返り御覧ずれば、
「いともかしこきはおきどころもはべらず。かかるおほことにつけても、かきくらすみだごこになむ」

  あらかぜふせぎしかげの枯れしよりはぎうへ静心しづこころなき

などやうにみだりがはしきを、「心をさめざりけるほど」と御覧じゆるすべし。

語釈
  • おきどころ【置き所・置き処】:身や心を置く場所。
  • かきくらす【掻き暗す】:悲しみに心を暗くする。悲しみに暮れる。
  • みだりごこち【乱り心地】:取り乱した心の状態。
  • みだりがはし【乱りがはし】:乱雑なようす。無作法だ。
  • ごらんじゆるす【御覧じ許す】:お見逃しになる。大目にご覧になる。
  • しのびあへず【忍び敢へず】:耐えられない。隠しきれない。
  • ときのま【時の間】:ほんのちょっとの間。
  • おぼつかなし【覚束なし】:待ち遠しい。もどかしい。

現代語訳

 帝は命婦に、それはもう事細かに更衣の実家の様子をお尋ねになります。命婦はまことに哀れであったことを、粛々と申し上げました。帝は母君からの御返事を御覧になると、
「これほどもったいない帝の御手紙は、悠長に置いておける場所もございません。このような仰せ言につきましても、真っ暗に思い乱れる心地でございます」

  あらかぜふせぎしかげの枯れしよりはぎうへ静心しづこころなき

などというように無作法な返歌を、心を冷ませずにいた時のことと寛大に御覧になるでしょう。

いとかうしも見えじと思ししづむれど

原文

 いとかうしも見えじとおぼししづむれど、さらにえ忍びあへさせたまはず、御覧じはじめし年月としつきのことさへかき集め、よろづにおぼし続けられて、時の間もおぼつかなかりしを、「かくても月日はにけり」と、あさましうおぼしめさる。

語釈
  • しのびあへず【忍び敢へず】:耐えられない。隠しきれない。
  • ときのま【時の間】:ほんのちょっとの間。
  • おぼつかなし【覚束なし】:待ち遠しい。もどかしい。

現代語訳

 帝は、「こうまでひどく取り乱すさまを決して見られてはなるまい」と思い鎮められますが、まったく隠しきれません。更衣を初めて御覧になった時からの思い出までかき集めて、次から次へと思い続けられます。ほんの少しの間も更衣を待ちきれなかったのが、このようなありさまでよくも月日を過ごせたものだと、驚きあきれるように思い召されるのでした。

故大納言の遺言あやまたず

「故大納言の遺言ゆいごむあやまたず、宮仕みやづかへの本意ほい深くものしたりしよろこびは、かひあるさまにとこそおもひわたりつれ、言ふかひなしや」
とうちのたまはせて、いとあはれにおぼしやる。
「かくても、おのづから若宮わかみやなどでたまはば、さるべきついでもありなむ。命長いのちながくとこそおもねんぜめ」
などのたまはす。

語釈
  • あやまたず【過たず】:まちがいなく。ねらったとおりに。
  • よろこび【喜び・悦び・慶び】:お礼。
  • おもひわたる【思ひ渡る】:思い続ける。絶えず思う。
  • おひいず【生い出ず】:成長する。
  • ついで【序】:機会。
  • おもひねんず【思ひ念ず】:じっとこらえる。がまんする。一心に祈る。

現代語訳

「亡き更衣の父・大納言の遺言に背くことなく、宮仕えの志を深くまっとうしてくれたことへのお礼は、その甲斐があるようにと絶えず思い続けてきたのに、今となっては言っても仕方のないことよ」
と、帝はふと仰せになり、母君をたいそう哀れに思いやります。
「こうはなっても、そのうち若宮などが成長すれば、しかるべき機会もあろう。命長く、生きてさえいればと、一心に祈るとしよう」
などとおっしゃいます。

かの贈り物御覧ぜさす

原文

 かの贈り物御覧ぜさす。「亡き人のみかたづでたりけむしるしのかむざしざしならましかば」とおもほすも、いとかひなし。

  たづねゆくまぼろしもがなつてにてもたまのありかをそこと知るべく

にかける楊貴妃やうきひのかたちは、いみじき絵師といへども、筆限りありければいとにほひ少なし。大液芙蓉たいえきのふよう未央柳びやうのやなぎも、げにかよひたりしかたちを、からめいたるよそひはうるはしうこそありけめ、なつかしうらうたげなりしをおぼづるに、花鳥の色にもにもよそふべきかたぞなき。朝夕の言種ことくさに、「はねをならべ、枝をかはさん」と契らせたまひしに、かなはざりける命のほどぞ、尽きせずうらめしき。

語釈
  • しるし【証】:証拠。あかし。
  • まぼろし【幻】:幻術士。
  • もがな:⋯であればなあ。⋯があればなあ。
  • つて【伝て】:人づて。
  • かたち【容貌】:容貌。美人。美しい顔立ち。
  • にほひ【匂ひ】:色つやのある美しさ。香り。
  • たいえきのふよう【太液芙蓉】:太液池の蓮の花のような顔。
  • びやうのやなぎ【未央柳】:未央宮の柳のような眉。
  • かよふ【通ふ】:似通う。
  • なつかし【懐かし】:手放したくない。かわいい。いとしい。
  • らうたし:かわいい。いとしい。
  • よそふ【寄そふ・比ふ】:なぞらえる。たとえる。思い比べる。
  • ことくさ【言種】:口ぐせ。

現代語訳

 命婦は母君からの贈り物を帝に御覧に入れます。「亡き人の住みかを探し出したという証のかんざしであったなら」と、お思いになるのも甲斐のないことでした。

  たづねゆくまぼろしもがなつてにてもたまのありかをそこと知るべく

絵に描いた楊貴妃の容姿は、どんなに素晴らしい絵師であっても筆に限りがありますので、生身の色気には少々かないません。太液池に咲く蓮の花のように艶やかなお顔、未央宮に伸びる柳のように細く美しい眉も、楊貴妃と更衣の容姿は実によく似通っていました。唐風の装いはさぞ麗しかったでしょうが、親しみやすく可愛らしかった更衣を思い出しますと、花鳥の色にも音にも例えようがないのです。朝夕のあいさつ代わりに、「翼をならべ、枝を交わそう」とお約束なさいましたのに、かなわなかった命の定めが尽きないことを恨めしく思います。

涙に暮れる秋の月

風の音、虫の音につけて

原文

 かぜおとむしにつけて、もののみ悲しうおぼさるるに、弘徽こき殿でんには、久しくうへの御つぼねにものぼりたまはず、月のおもしろきに、ふくるまであそびをぞしたまふなる、いとすさまじうものしと聞こしめす。このごろの御けしきを見たてまつる上人うへびと、女房などは、かたはらいたしと聞きけり。いとおしちかどかどしき所ものしたまふ御方にて、ことにもあらずおぼし消ちてもてなしたまふなるべし。

語釈
  • すさまじ【凄まじ】:その場にそぐわず興ざめだ。
  • ものし【物し】:気にくわない。不快だ。
  • かたはらいたし【傍ら痛し】:そばで聞いたり見たりしているのもにがにがし、いたたまれない、みっともない。
  • おしたつ【押し立つ】:強引に振る舞う。我を張る。
  • かどかどし【才才し】:とげとげしい。角が多い。
  • ことにもあらず【事にもあらず】:たいしたことではない。
  • おぼしけつ【思し消つ】。無理にお忘れになる。無視なさる。
  • もてなす【もて成す】:振る舞う。ふりをする。

現代語訳

 風の音、虫の音につけても、帝はただただ悲しい音と思われるのに、弘徽殿の女御に至っては、久しく清涼殿の御局にも参上されません。月の美しい情緒ある夜に、遅くまで管絃のお遊びにほうけていらっしゃるのを、帝は月夜にそぐわない不愉快な音とお聞きになります。この頃の帝の御様子を拝している殿上人や女房などは、そばで聞いているだけで苦々しい思いでした。非常に我が強く、角の立つ所の多い方でしたので、更衣の死などたいした問題ではないと軽視して、そんな振る舞いをしておられたのでしょう。

月も入りぬ

原文

 月も入りぬ。

  雲のうへも涙にるる秋の月いかで住むらむ浅茅生あさぢふの宿

 おぼしめしやりつつ、灯火ともしをかかげ尽くして起きおはします。右近のつかさ宿直とのゐまうしのこゑ聞こゆるは、うしになりぬるなるべし。人目をおぼして、よる御殿おとどらせたまひても、まどろませたまふことかたし。あしたに起きさせたまふとても、「くるも知らで」とおぼづるにも、なほあさまつりごとはおこらせたまひぬべかめり。

語釈
  • ともし・ともしび【灯火】:明かり。
  • かかぐ【掲ぐ】:灯火をかき立てて明るくする。
  • うこん【右近】:右近衛府の略。宮中の警備にあたる役所。
  • とのゐまうし【宿直申し・宿直奏し】:宮中に宿直した者が、定刻に点呼に応じて自分の姓名を名乗ること。
  • うし【丑】:午前2時頃。
  • よるのおとど【夜の御殿】:清涼殿にある天皇の御寝所。
  • まどろむ【微睡む】:うとうとする。ついちょっと寝る。

現代語訳

 月は山の端に入りました。

  雲のうへも涙にるる秋の月いかで住むらむ浅茅生あさぢふの宿

と、母君と若宮が住む家を思いやりながら、灯火をかき立て尽くして起きていらっしゃいます。宮中に宿直する右近衛府の士官が点呼をする声が聞こえるのは、午前2時頃になったのでしょう。人目を気にされて御寝所にお入りになっても、うとうととお眠りになることも難しい。朝になってお目覚めになっても、「明けるのも知らないで」と、更衣と日が高くなるまで共にしていた日々を思い出しては、今でもなお、朝の政務を怠ることがあるようでした。

ものなども聞こしめさず

原文

 ものなども聞こしめさず、朝餉あさがれひのけしきばかり触れさせたまひて、大床子だいしやうじものなどはいとはるかにおぼしめしたれば、陪膳はいぜんにさぶらふかぎりは心ぐるしき御けしきを見たてまつりなげく。すべて、ちかうさぶらふかぎりは、をとこをんな
「いとわりなきわざかな」
と言ひ合はせつつなげく。
「さるべきちぎりこそはおはしけめ。そこらの人のそしり、うらみをもはばからせたまはず、この御ことに触れたることをばだうをも失はせたまひ、いまはた、かく世中よのなかのことをもおもほし捨てたるやうになりゆくは、いとたいだいしきわざなり」
と、人のみかどのためしまで引きで、ささめきなげきけり。

語釈
  • もの【物】:食事。
  • きこしめす【聞こし召す】:召し上がる。
  • あさがれひ【朝餉】:朝餉のまで天皇が召し上がる略式の食事。
  • けしきばかり【気色ばかり】:少しだけ。形だけ。ほんの少し。
  • ふる【触る】:少し食べる。箸をつける。
  • だいしゃうじ【大床子】:天皇が食事などの時に腰掛ける台。
  • だいしゃうじのおもの【大床子の御膳】:天皇の正式の食事。
  • はるか【遥か】:気が進まないようす。
  • はいぜん【陪膳】:宮中で天皇が食事の時、給仕を勤めること。
  • かぎり【限り】:すべて。全部。
  • ことにふれ【事に触れ】:何かにつけて。ものごとに関して。
  • いまはた【今将】:今となってまた。今はもう。
  • たいだいし【怠怠し】:不都合である。もってのほかだ。
  • ささめく:ささやく。小声でひそひそ話す。

現代語訳

 お食事なども召し上がらず、略式の食事は形ばかり箸をつけるだけで、正式な食事などはとても箸が進まないとお思いになっているので、配膳係の者は皆、帝の心苦しい御様子を拝して嘆きいています。すべて、帝の側にお仕えする者は男も女も、
「まったくどうしようもないことですね」
と言い合いながら嘆くのでした。
「こうなるべき前世の約束がきっとあったのでしょう。そこら中の人々の嫉妬、恨みをもお気になさらず、この更衣に触れることにはいつも道理をも失われ、今となってはもう、このように世の中のことをもお見捨てになるありさまになっていくのは、まことに困ったことです」
と、異国の帝の例まで引き合いに出して、ひそひそと嘆いていました。