母君の返事
命長さの、いとつらう思うたまへ知らるるに
「命長さの、いとつらう思うたまへ知らるるに、松の思はんことだに恥づかしう思うたまへはべれば、ももしきに行きかひはべらんことはまして、いと憚り多くなむ。かしこき仰せ言をたびたびうけたまわりながら、みづからはえなむ思ひたまへ立つまじき。若宮はいかに思ほし知るにか、参りたまはんことをのみなん思し急ぐめれば、ことわりに悲しう見たてまつりはべるなど、うちうちに思うたまへるさまを奏したまへ。ゆゆしき身にはべれば、かくておはしますもいまいましうかたじけなくなむ」
とのたまふ。
- いのちながさ【命長さ】:長寿であること。
- おもひしる【思ひ知る】:(ものごとの道理や趣を)わきまえ悟る。理解する。身にしみて感じる。
- ももしき【百敷】:皇居。宮中。
- おもひたつ【思ひ立つ】:決心する。
- おぼしいそぐ【思し急ぐ】:お急ぎになる。
- うちうち【内内】:内心の複数形。それぞれの心。表向きでないこと。非公式なこと。
- ゆゆし:不吉だ。忌まわしい。
- いまいまし【忌ま忌まし】:不吉だ。縁起が悪い。
- かたじけなし【忝し・辱し】:恐れ多い。
- おほとのごもる【大殿籠る】:「ぬ(寝)」「いぬ「寝ぬ」」の尊敬語。おやすみになる。
- くはし【妙し・美し・細し】:細やかでうるわしい。
「命の長いことがこんなにもつらいと思い知らされますと、長寿の松の木にまだ生きているのかと思われることさえ恥ずかしく思いますので、宮中に出入りしますことはまして、大変恐れ多いことでございましょう。もったいない帝のお言葉をたびたび承りながら、わたし自身はとても決心できそうにありません。若宮はどのようにして悟られたのか、宮中へお帰りになることばかりをお急ぎのようでございます。祖母として若宮とのお別れがもっともなことと悲しくお見受けいたしておりますことなど、それぞれの心のうちを帝にお伝えくださいませ。わたしは夫にも娘にも先立たれた不吉な身でございますので、こうして若宮がおられることも忌々しく恐れ多いことで⋯⋯」
とおっしゃいます。
宮は大殿籠りにけり
宮は大殿籠りにけり。
「見たてまつりて、くはしう御ありさまも奏しはべらまほしきを、待ちおはしますらんに、夜ふけはべりぬべし」
とて急ぐ。
- おほとのごもる【大殿籠る】:「ぬ(寝)」「いぬ「寝ぬ」」の尊敬語。おやすみになる。
- くはし【妙し・美し・細し】:細やかでうるわしい。
若宮はもうお休みになられました。
「若宮のお顔を拝ませていただいて、うるわしい御様子も帝に報告させていただきたく存じますが、帝も宮中でお待ちになっておられるでしょうから、夜も更けてしまわないうちに⋯⋯」
と帰りを急いでいます。
くれまどふ心の闇も
「くれまどふ心の闇も、耐へがたき片端をだに晴るくばかりに聞こえまほしうはべるを、私にも心のどかにまかでたまへ。年ごろ、うれしく面立たしきついでにて立ち寄りたまひしものを、かかる御消息にて見たてまつる、かへすかへすつれなき命にもはべるかな。生まれし時より思ふ心ありし人にて、故大納言いまはとなるまで、『ただ、この人の宮仕への本意、かならず遂げさせたてまつれ。われ亡くなりぬとて口惜しう、思ひくづほるな』と、かへすかへす諌めおかれはべりしかば、はかばかしう後見思ふ人もなき交じらひは、なかなかなるべきことと思ひたまへながら、ただかの遺言を違へじとばかりに、出だし立てはべりしを、身にあまるまでの御心ざしの、よろづにかたじけなきに、人気なき恥を隠しつつ交じらひたまふめりつるを、人のそねみ深く積り、安からぬこと多くなり添ひはべりつるに、横様なるやうにてつひにかくなりはべりぬれば、かへりてはつらくなむ、かしこき御心ざしを思ひたまへられはべる。これもわりなき心の闇になん」
と、言ひもやらずむせ返りたまふほどに夜もふけぬ。
- くれまどふ【暗れ惑ふ】:目の前が真っ暗になる。途方に暮れる。
- かたはし【片端】:(物事の)一部分。一端。
- わたくし【私】:内々のこと。個人的なこと。
- こころのどか【心長閑】:心の落ち着いてゆったりしているさま。のんびりしているさま。
- としごろ【年頃】:ここ数年もの間。数年来。
- おもだたし【面立たし】:名誉だ。光栄に思う。晴れがましい。
- ついで:折。場合。機会。
- せうそこ【消息】:訪問して、来意を告げること。
- かへすかへす【返す返す】:くり返し。何度も。どう考えても。何度考え直しても。
- つれなし:無情だ。冷淡である。つれない。よそよそしい。
- いまは【今は】:臨終。
- ほい【本意】:本来の志。前からの望み。宿願。
- おもひくづほる【思ひ頽る】:気を落とす。気が弱くなる。
- よろづに【万に】:いろいろと。何事につけて。
- ひとげなし【人気無し】:人並でない。一人前の扱いを受けない。
- めりつ:⋯ようだ。
- よこさま【横様】:道理にあわないこと。ふつうでなく異常なようす。
- かへりて【却りて】:かえって。反対に。逆に。
「まっ暗に暮れ惑う心の闇も、耐えがたい思いの片端だけでも晴れるまでお話したいと存じますので、勅使としてではなく私的にごゆっくりとお越しくださいませ。ここ数年は喜ばしく晴れやかな折にお立ち寄りくださいましたものを、このような悲しいお便りの御使いとしてお目にかかろうとは、まったくもってつれない命でありますかな。生まれた時より志のある娘でしたので、亡き夫大納言は臨終の間際まで、『ただ、この子の宮仕えの志だけは、必ず果たしてあげてください。わたしが死んだからといって悔しく思い、気落ちさせないように』と、くり返しご忠告を残されました。しっかりとした後見を考える人もいない中での宮仕えは、むしろ厳しいことであろうと思いながらも、ただ夫の遺言に背いてはいけないとばかりに宮仕えへ出させました。すると身に余るまでの御厚意をいただき、すべてにおいてありがたいことで、周囲から人並みに扱われない恥を隠しながら宮仕えをしていたようです。そのうち他の人々の嫉妬が深く積み重なり、穏やかでないことが多くつきまとっていたことにより、呪われたかのような様子でとうとう亡くなってしまいました。かえってつらかったであろうと、もったいない御厚意をそのように思ってしまうのでございます。これも分別を失った心の闇ゆえでしょうか⋯⋯」
と、言いも終わらず涙でむせ返られているうちに、夜もふけてしまいました。
更衣の形見を贈る
上もしかなん
「上もしかなん。『わが御心ながら、あながちに人目おどろくばかり思されしも、長かるまじきなりけりと、今はつらかりける人の契りになむ世に、いささかも人の心をまげたることはあらじと思ふを、ただこの人のゆゑにて、あまたさるまじき人のうらみを負ひしはて、はてはかううち捨てられて、心をさめむ方なきに、いとど人わろうかたくなになりはべるも、先の世ゆかしうなむ』とうち返しつつ、御しほたれがちにのみおはします」
と、語りて尽きせず。泣く泣く、
「夜いたうふけぬれば、今宵過ぐさず、御返り奏せむ」
と、急ぎまゐる。
- あながち【強ち】:むやみだ。度を越しているさま。一途であるさま。
- ちぎり【契り】:前世からの約束。宿縁
- さるまじ【然るまじ】:そうあるべきでない。不適当である。
- はてはて【果て果て】:あげくのはて。
- ひとわろし【人悪し】:外聞が悪い。みっともない。恥ずかしい。
- かたくなし【頑なし】:ひねくれている。愚かである。
- ゆかし【床し】:好奇心がもたれ、そのものに心が向かっていく状態。行きたい。知りたい。
- うちかへし【打ち返し】:くり返して。何度も。
- しほたる【潮垂る】:涙をぬぐった袖からしずくが垂れる。涙にくれる。
「帝もそのようにおっしゃっております。『わたしの真心であったとはいえ、あれほど一途に人目を驚かせるほど愛したのも、きっと長くない運命であったのだろう。今思い起こすと、つらかった前世からの宿縁であろう今世で、更衣はいささかも人の心をねじ曲げたことはないはずだと思うのに、ただこの人の身分のために、数多くのすじ違いな人の恨みを背負って果ててしまった。果てはこうもうち捨てられて、心を鎮めようにもすべがなく、いよいよ人聞きが悪くかたくなになってしまったのも、先の世を見てみたいものだ』と、くり返されながら、涙で御袖を濡らすことが多くなるばかりでございます」
と、命婦も語り尽くせません。泣く泣く、
「夜もすっかりふけてしまいましたので、今宵は過ごさず、御返事を帝にお伝えいたしましょう」
と言って急ぎなさいます。
月は入り方に
月は入り方に、空きよう澄みわたれるに、風いと涼しくなりて、草むらの虫の声々もよほし顔なるも、いと立ち離れにくき草のもとなり。
鈴虫の声の限りを尽くしても長き夜あかずふる涙かな
えも乗りやらず。
いとどしく虫の音しげき浅茅生に露おき添ふる雲の上人
「かごとも聞こえつべくなむ」
と、言はせたまふ。
- いりがた【入り方】:日や月の沈むころ。
- もよほしがほ【催し顔】:うながすようなさま。誘う気配。
- いとどし:ますます激しい。いよいよはなはだしい。ただでさえ⋯なのに、いっそう⋯だ。
- あさぢ【浅茅】:丈の低い千萱。
- あさぢふ【浅茅生】:浅茅が生えているところ。
- そふ【添ふ】:つけ加える。増す。
- くものうへびと【雲の上人】:宮中に仕える貴人の総称。
- かごと【託言】:恨みごと。ぐち。
月の沈むころ、空は清らかに澄みわたり、風はすっかり涼しくなって、草むらの虫の声々が涙を誘うようであるのも、とても立ち離れがたい草のもとです。
鈴虫の声の限りを尽くしても長き夜あかずふる涙かな
と命婦は歌を詠み、どうにも車に乗れずにいます。
いとどしく虫の音しげき浅茅生に露おき添ふる雲の上人
「うわ言の一つも申してしまいそうで⋯⋯」
と、女房から伝えさせました。
をかしき御贈りものなど
をかしき御贈りものなどあるべき折にもあらねば、ただかの御形見にとて、かかる用もやと残したまへりける御装束一くだり、御髪上げの調度めくもの添へたまふ。若き人々、悲しきことはさらにも言はず、内わたりを朝夕にならひて、いとさうざうしく、上の御ありさまなど思ひ出できこゆれば、とく参りたまはんことをそそのかしきこゆれど、かくいまいましき身の添ひたてまつらんも、いと人聞き憂かるべし、また見たてまつらでしばしもあらむはいとうしろめたう思ひきこえたまひて、すがすがともえ参らせたてまつりたまはぬなりけり。
- みぐしあげ【御髪上げ】:貴人の髪を結うこと。
- てうど【調度】:日常使う手道具。
- めく:⋯のようになる
- さらにもいはず【更にも言はず】:改めて言うまでもない。
- うち【内】:宮中。内裏。
- さうざうし:もの足りない。つまらない。
- うへ【上】:天皇。
- おもひいづ【思い出づ】:思い出す。
- そそのかす【唆す】:その気になるように勧誘する。催促する。おだてて、悪い方へ誘い導く。
- ひとぎき【人聞き】:世間の聞こえ。評判。
- うしろめたし【後ろめたし】:心配だ。気がかりだ。
- すがすが【清清】:とどこおりのないさま。すらすら。思い切りのよいさま。あっさり。
風情のある贈り物などあるような状況でもないので、わずかに亡き更衣の御形見として、このような用もあるやもしれないと残しておいた御衣装の一式、御髪上げの日用品らしいものを添えられました。更衣に仕えていた若い女房たちは、更衣の死が悲しいことは改めて言うまでもなく、宮中への朝夕の出入りが習慣になっておりましたので、まことに心寂しい気持ちです。帝の御姿などを思い出して申し上げると、宮中へ早く参内なさってはとそそのかしているように聞こえますが、「このような忌々しい身で若宮にお付き添いいたそうにも、さぞかし世間体が悪くつらいでしょう。また、若宮のお顔を拝めない日が少しでもあろうことが心から不安なのです」と思いなさるので、きっぱりと若宮を連れて参ることもできないのでした。