目次 閉じる
光源氏3歳、御袴着のこと
この御子、三になりたまふ年
この御子、三になりたまふ年、御袴着のこと、一の宮のたてまつりしに劣らず、内蔵寮、納殿のものを尽くしていみじうせさせたまふ。それにつけても世のそしりのみ多かれど、この御子のおよすげもておはする御容貌、心ばへ、ありがたくめづらしきまで見えたまふを、え嫉みあへたまはず。ものの心知りたまふ人は、「かかる人も世に出でおはするものなりけり」と、あさましきまで目をおどろかしたまふ。
- はかまぎ【袴着】:男子が初めて袴をつける祝いの儀式。七五三の前身。
- くらづかさ【内蔵寮】:宮中の財宝や天皇の装束などを納める蔵を管理する役所。
- をさめどの【納殿】:金銀・衣服・調度などを納めて置く所。
- およすく:成長する。おとなになる。おとなびる。
- もておはす【持て御座す】:お持ちでいらっしゃる。
- こころばへ【心ばへ】:性質。気立て。才気。
- ありがたし【有り難し】:めったにない。まれである。すぐれている。立派だ。
- あへず【敢へず】:最後まで⋯しきれない。
- もののこころ【物の心】:物の道理。物事をわきまえる心。
- あさまし:驚きあきれるさまだ。
- めをおどろかす【目を驚かす】:目を見張る。見てびっくりする。
若君が3歳になられた年、袴着の儀式がありました。第一皇子がお召しになったのに劣らず、帝は宮中に納められている貴重な装飾品の数々をお使いになり、式は盛大に執り行われたのでした。それにしても世間では非難ばかりが多かったのに、若君が生まれ持った美しいお顔や才気あふれるお姿が、成長するにつれて世にも珍しいほどに輝いてまいりましたので、女御たちもさすがに嫉みきれません。分別のある人は、「こんなにも選ばれし者が世に現れることもあるのか」と、驚きあきれんばかりに目を見張っています。
その年の夏、御息所はかなき心地に
その年の夏、御息所はかなき心地にわづらひて、まかでなんとしたまふを、暇さらにゆるさせたまはず。年ごろ常の篤しさになりたまへれば、御目馴れて、
「なほしばし心みよ」
とのみのたまはするに、日々に重りたまひて、ただ五六日のほどにいと弱うなれば、母君泣く泣く奏して、まかでさせたてまつりたまふ。かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をばとどめたてまつりて忍びてぞ出でたまふ。
- みやすんどころ【御息所】:天皇の御寝所に仕える女性。桐壺更衣のこと。
- ここち【心地】:気分のすぐれないこと。病気。
- わづらふ【煩ふ】:病気になる。病む。
- まかづ【罷づ】:貴人のところから引きさがる意の謙譲語。おいとまする。
- いとま【暇】:(仕事を)休んでいる間。休暇。
- さらに【更に】:まったく。全然。
- としごろ【年頃】:これまでの何年かの間。
- あづしさ【篤しさ】:病気がちであること。
- めなる【目馴る】:見なれる。
- こころみる【心見る・試みる】:試してみる。
- おもる【重る】:病気が重くなる。
- そうす【奏す】:天皇に申し上げる。奏上する。
- あるまじき【有るまじき】:あってはならない。とんでもない。
- こころづかひ【心遣ひ】:用心。
その年の夏、桐壺更衣は意識がぼんやりとする気鬱な病を患い、実家に下がって養生したいと申し出ました。でも帝は、少しの休暇も許してくださいません。ここ数年いつも病気がちでしたので、なれてしまった帝は、
「今しばらく様子をみよう」
とおっしゃるばかり。病は日に日に重くなり、ほんの5~6日でひどく弱ってしまいました。更衣の母君が泣く泣く帝に申し上げることで、ようやく実家へ下がることが許可されました。このような場合でも、女御たちに想定外の恥をかかされてはいけないと用心して、更衣はこっそりと退出なさいます。
桐壺更衣の死
限りあれば、さのみもえとどめさせ
限りあれば、さのみもえとどめさせたまはず。御覧じだに送らぬおぼつかなさを言ふ方なく思さる。いと匂ひやかにうつくしげなる人の、いたう面痩せて、いとあはれとものを思ひしみながら、言に出でても聞こえやらず、あるかなきかに消え入りつつものしたまふを御覧ずるに、来し方行く末を思しめされず。
- かぎり【限り】:決まり。規則。おきて。
- さのみ【然のみ】:そうむやみに。
- おぼつかなさ【覚束なさ】:もどかしさ。
- いふかたなし【言ふ方無し】:ことばで表現しようがない。言いようがない。
- にほひやか【匂ひやか】:つやがあってはなやかなさま。
- おもひしむ【思い染む】:深く心に感じる。一途に考える。
- ことにいづ【言に出づ】:口に出す。
- きこえやる【聞こえ遣る】:申し伝える。
- ありかなきか【有るか無きか】:すっかり衰弱して、生死も判然としないようなさま。
- きしかたゆくすゑ【来し方行く末】:過去と未来。過去のことと将来のこと。
規則により、穢れである病人を宮中にとどめ置くことは禁忌とされているため、帝もそうむやみに更衣を引きとどめることはできません。帝という神聖な立場であるがゆえに、病人を見送ることさえ許されないもどかしさを、言葉にできないほど感じておられます。更衣はとてもつややかで美しい人であったのに、今やすっかりやつれてしまいました。いたたまれない寂しさをしみじみと感じながらも、言葉に出して申し伝えることもできません。生きているのか死んでいるのかわからないほど弱々しく、そのまま消え入りそうに退出していきます。衰弱しきった更衣を御覧になった帝は、過去を振り返ることも、将来を考えることもできなくなってしまいました。
よろづのことを泣く泣く
よろづのことを泣く泣く契りのたまはすれど、御いらへもえ聞こえたまはず、まみなどもいとたゆげにて、いとどなよなよと、我かの気色にて臥したれば、いかさまにと思し召しまどはる。手車の宣旨などのたまはせても、また入らせたまひて、さらにえゆるさせたまはず。
- いらへ【答へ・応へ】:返事。
- まみ【目見】:目もと。目つき。まなざし。
- たゆげ【弛げ・懈げ】:だるそうなさま。
- なよなよと:萎えて弱々しいさま。
- われかのけしき【我かの気色】:(自分のことかどうかわからないほど)意識がぼんやりしている状態。
- いかさま【如何様】:どのようだ。どんなふうだ。
- まどふ【惑ふ】途方に暮れる。
- てぐるま【手車・輦車・輦】:人の手で引く車で、輿に車輪をつけたような形のもの。
- てぐるまのせんじ【手車の宣旨】:臣下に宮中を「手車」に乗って出入りすることを許可する天皇の仰せ言。
- ゆるす【許す・赦す・緩す】:解き放す。自由にする。
帝は涙を流しながらあれこれとお約束なさいますが、更衣はお返事を申し上げることもできません。目のまなざしにもまったく力が感じられず、体はいつにも増してなよなよとしています。自分も分からないほどもうろうとした意識でうつむいているので、帝は「どうすることもできないのか」と気が動転しています。特別に手車で宮中に出入りすることなどを許可されてからも、帝はまた更衣の部屋にお入りになり、どうしても手放すことができません。
限りあらん道にもおくれ先立たじと
「限りあらん道にもおくれ先立たじと、契らせたまひけるを、さりともうち捨ててはえ行きやらじ」
とのたまはするを、女もいといみじと見たてまつりて、
限りとてわかるる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり
「いとかく思ひたまへましかば」
と息も絶えつつ、聞こえまほしげなることはありげなれど、いと苦しげにたゆげなれば、かくながらともかくもならんを御覧じはてんと思しめすに、
「今日始むべき祈りども、さるべき人々うけたまはれる、今宵より」
と聞こえ急がせば、わりなく思ほしながらまかでさせたまふ。
- かぎりあるみち【限りある道】:死出の道。
- おくれさきだつ【後れ先立つ】:一方が先に死に、他方が生き残る。
- さりとて【然りとも】:いくらなんでも。まさか。
- うちすつ【打ち捨つ】:(死・別離・出家などで)人を後に残す。置き去りにする。
- いかまほし【生かまほし】:生きていたい。
- かくながら【斯くながら】:このままで。そのままの状態で。
- ともかくもなる:(不本意な)ある状態や結果になる。特に、死ぬ意を婉曲にいう。
- らんじはてん【覧じ果てん】:最後まで見とどける。
- いのり【祈り】:専門の僧や修行者に依頼して行う祈祷。
- わりなし:やむを得ない。仕方がない。どうしようもない。
「死ぬ時は一緒だと約束していたのに、まさかわたし一人を置いては行けないでしょう」
とおっしゃる帝の姿を、更衣もたいそう切なくお見上げして、
限りとてわかるる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり
「このように生きたいと強く思っておりましたなら」
と、息も絶え絶えに、まだ何か申し伝えたいことがありそうでしたが、あまりに苦しくて話す力も出ないようです。帝は歌を返すこともなく、宮中の禁忌を破って更衣の成り行きをこのまま最後まで見とどけたいとお思いになります。しかし更衣の母君が、
「今日から始めることになっている祈祷のもろもろを、しかるべき専門の方々が準備しております。それが今夜からですので」
と申し上げて急がせるので、帝はどうしようもなく辛いお気持ちのまま退出を許可されたのでした。
御胸つとふたがりて
御胸つとふたがりて、露まどろまれず、明かしかねさせたまふ。御使の行き交ふほどもなきに、なほいぶせさを限りなくのたまはせつるを、
「夜中うち過ぐるほどになん絶えはてたまひぬる」
とて泣きさわげば、御使もいとあへなくて帰り参りぬ。聞こしめす御心まどひ、何ごとも思しめし分かれず、籠りおはします。
- むね【胸】:心。
- つと:ぴったりと。
- ふたがる【蓋がる】:ふさがる。
- まどろむ【微睡む】:うとうとする。ついちょっと寝る。
- ⋯かぬ:⋯できない。⋯しようとしても力が及ばない。
- いぶせさ:心が晴れないこと。
- あへなし【敢え無し】:どうしようもない。あっけない。
- きこしめす【聞こし召す】:お聞きになる。
帝は心をすっかり閉じられて、少しの間も眠ることができず、夜を明かせずにいます。お見舞いに送った使いの者が里を往復するだけの時間も経っていないのに、心がそわそわして仕方がないとずっと話しておられました。
「夜中を過ぎた頃に、とうとう息を引き取っておしまいになりました」
更衣の里では、人々が声を荒げて泣いていました。使いの者はすっかり気落ちしてしまい、あっけなく帰ってまいります。使いの者から話を聞いた帝は気が動転し、何事も正常な判断ができず、お部屋に引きこもってしまいました。
桐壺更衣の葬送
御子はかくてもいと御覧ぜまほしけれど
御子はかくてもいと御覧ぜまほしけれど、かかるほどにさぶらひたまふ例なきことなれば、まかでたまひなんとす。何ごとかあらむとも思したらず、さぶらふ人びとの泣きまどひ、上も御涙のひまなく流れおはしますを、あやしと見たてまつりたまへるを、よろしきことにだにかかる別れの悲しからぬはなきわざなるを、ましてあはれに言ふかひなし。
- まかづ【罷づ】:退出する。おいとまする。
帝はこのような時でも、若君を側に置いて御覧になりたいのですが、母の喪中に若君が宮中にいるというのは例のないことですので、若君を更衣の里へと退出させました。若君は何が起きたのかわからず、女房たちが泣いて取り乱し、帝まで涙をずっと流しているのを不思議に思って見ています。ただでさえ親子の別れは悲しくて仕方がないのに、母の死を理解できない若君はますます哀れで、かける言葉もありません。
限りあれば、例の作法にをさめ
限りあれば、例の作法にをさめたてまつるを、母北の方、
「同じ煙にのぼりなん」
と泣きこがれたまひて、御送りの女房の車に慕ひ乗りたまひて、愛宕といふ所にいといかめしうその作法したるにおはしつきたる心地、いかばかりかはありけむ。
「むなしき御骸を見る見る、なほおはするものと思ふがいとかひなければ、灰になりたまはんを見たてまつりて、今は亡き人とひたぶるに思ひなりなむ」
とさかしうのたまへれど、車よりも落ちぬべうまろびたまへば、「さは思ひつかし」と、人々もてわづらひきこゆ。
- かぎり【限り】:限度。決まり。おきて。
- れい【例】:慣習。ならわし。通例。
- さほふ【作法】:〘仏教語〙葬礼・授戒など仏事をとり行う法式、しきたり。(=火葬)
- をさむ【収む・納む】:死者を葬る。埋葬する。
- したふ【慕ふ】:あとを追う。
- おたぎ【愛宕】:現在の京都市左京区北白川辺りか。古く葬送地だった。
- いかめし【厳めし】:おごそかだ。
- おはしつく【御座し着く】:お着きになる。
- かひなし【甲斐無し・効無し】:しかたがない。どうしようもない。
- ひたぶる【頓・一向】:ひたすらするようす。
- さかし【賢し】:しっかりしている。気が強い。
- まろぶ【転ぶ】:転がる。倒れる。
- もてわづらふ【もて煩ふ】:扱いに困る。処置に悩む。
桐壺更衣との最後のお別れを惜しむにも限りがあり、定めがありますので、通例のしきたりに従って火葬で送ることになりました。通例では親が子の火葬に参列することはないのですが、母君の北の方は、
「娘と同じに煙になって立ち昇りたい」
と泣き焦がれ、御葬送の女房の車のあとを追って乗り込んでしまいます。愛宕という葬送の地で、大変おごそかに執り行われている葬儀の最中に到着された時のお気持ちは、どれほどであったでしょうか。
「魂の抜けた亡骸をよくよく見ては、なおも生きていらっしゃるものと思う自分がどうにもやるせないのです。いっそ灰になってしまわれるのを見とどけて、今は亡き人とひたすらに思い切りましょう」
と気丈におっしゃいましたが、車から落ちようかというほどよろめいておられます。「そうなるだろうと思っていた通りですね」と、女房たちも扱いに困っていました。
内より御使あり
内裏より御使あり。三位の位贈りたまふよし、勅使来てその宣命読むなむ悲しきことなりける。女御とだに言はせずなりぬる、飽かず口惜しう思さるれば、いま一刻みの位をだにと贈らせたまふなりけり。これにつけても憎みたまふ人々多かり。もの思ひ知りたまふは、さまかたちなどのめでたかりしこと、心ばせのなだらかにめやすく憎みがたかりしことなど、今ぞ思し出づる。さまあしき御もてなしゆゑこそすげなう嫉みたまひしか、人柄のあはれに情ありし御心を、上の女房なども恋ひしのびあへり。「なくてぞ」とはかかる折にやと見えたり。
- かぎり【限り】:限度。決まり。おきて。
宮中から勅使がお見えになりました。亡き更衣に三位の位を贈るため、勅使が宣命を読みあげるのが何とも悲しく感じられます。帝は女御とさえ言わせずじまいだったことが心残りで口惜しくお思いになり、せめてもう一段上の位をと贈られたのです。このことでも更衣を憎む人々が多くいました。そんな中でも良心がある人は、更衣の品格や容姿が立派で美しかったことや、内面も穏やかで人当たりが良く、とても憎まれるような人ではなかったことなどを、今更のように思い出しています。あまりに見苦しい帝の御寵愛があったからこそ冷淡に嫉んでいましたが、人柄がやさしくて思いやりのある心持ちを、帝のそばに仕える女房たちも懐かし思い合っておられました。「亡くてぞ人は恋しかりける」と古い歌にあるのは、このような折の心であろうよと思われます。