【全文】第1帖「桐壺」の原文と現代語訳|紫式部『源氏物語』

桐壺(1)いづれの御時にか

原文

 いづれの御時おほんときにか、女御にようご更衣かういあまたさぶらひたまひける中に、いとやんごとなききはにはあらぬが、すぐれてときめきたまふありけり。はじめより、「我は」とおもがりたまへる御方々かたがた、めざましきものにおとしめそねみたまふ。同じほど、それよりらふ更衣かういたちは、まして安からず。朝夕あさゆふ宮仕みやづかへにつけても人の心をのみ動かし、うらみをつもりにやありけむ、いとあづしくなりゆき、ものこころぼそげにさとがちなるを、いよいよかずあはれなるものにおもほして、人のそしりをもえはばからせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。上達かんだち上人うへびとなどもあいなく目をそばめつつ、「いとまばゆき人の御おぼえなり。唐土もろこしにもかかることの起こりにこそ、世も乱れあしかりけれ」と、やうやうあめしたにもあぢきなう人のもてなやみぐさになりて、やうためしも引きでつべくなりゆくに、いとはしたなきことおほかれど、かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにてまじらひたまふ。

 ちちだいごんは亡くなりて、ははきたかたなんいにしへの人のよしあるにて、親うちし、さしあたりて世のおぼえ花やかなる御方々かたがたにもいたう劣らず、なにごとの儀式をももてなしたまひけれど、とりたててはかばかしき後見うしろみなければ、こととある時はなほどころなく、こころぼそげなり。

 さきの世にも御ちぎりやふかかりけむ、世になくきよらなる玉のをのこ御子みこさへ生まれたまひぬ。いつしかと心もとながらせたまひて、いそまゐらせて御覧ずるに、めづらかなるちごの御容貌かたちなり。一の御子みこ大臣だいじん女御にようごの御はらにて、おもく、うたがひなきまうけの君と世にもてかしづききこゆれど、この御にほひには並びたまふべくもあらざりければ、大方おほかたのやむごとなき御おもひにて、この君をばわたくしものおもほし、かしづきたまふこと限りなし。

 はじめより、おしなべての上宮仕うへみやづかへしたまふべききはにはあらざりき。おぼえいとやむごとなく、上衆じやうずめかしけれど、わりなくまつはさせたまふあまりに、さるべき御あそびの折々をりをり、何ごとにもゆゑあることの節々ふしぶしには、まづのぼらせたまふ。ある時には大殿籠おおとのごもぐして、やがてさぶらはせたまひなど、あながちにまへ去らずもてなさせたまひしほどに、おのづからかろかたにも見えしを、この御子みこ生まれたまひてのちはいと心ことにおもほしおきてたれば、「ばうにも、ようせずはこの御子みこたまふべきなめり」と、一の御子みこ女御にようごおぼうたがへり。人よりさきまゐりたまひて、やむごとなき御おもひなべてならず、御子みこたちなどもおはしませば、この御かたいさめをのみぞなほわづらはしう、こころぐるしうおもひきこえさせたまひける。

 かしこき御かげを頼みきこえながら、おとしめきずを求めたまふ人はおほく、わが身はか弱くものはかなきありさまにて、なかなかなるものおもひをぞしたまふ。御つぼね桐壺きりつぼなり。あまたの御方々かたがたぎさせたまひて、ひまなき御前渡まへわたりに、人の御心を尽くしたまふもげにことわりと見えたり。のぼりたまふにも、あまりうちしきる折々をりをりは、打橋うちはし渡殿わたどののここかしこの道にあやしきわざをしつつ、御送り迎への人のきぬすそへがたくまさなきこともあり。またある時には、えさらぬだうをさしめ、こなたかなた心を合はせて、はしたなめわづらはせたまふ時もおほかり。ことにふれて数知らず苦しきことのみまされば、いといたうおもひわびたるを、いとどあはれと御覧じて、後涼殿こうらうでんにもとよりさぶらひたまふかうざうをほかに移させたまひて、うへつぼねにたまはす。そのうらみましてやらんかたなし。

現代語訳

 どの帝の御代でしたか、数多くの女御や更衣がお仕えしております中に、それほど高貴な身分の家柄ではないのに、誰よりも帝に寵愛されている人がおりました。後宮に入った時から、「わたしこそが一番」と思い上がっている女御たちは、その人を目障りな女だと見下し、嫉妬しています。その人と同じ程度か、もっと身分の低い更衣たちは、なおさら心穏やかではありません。日常の宮仕えにおいても、他の女御たちの心を乱すばかりで、恨みを背負うことが積み重なったせいでしょうか。その人は病気がちになっていき、心細そうに実家で静養することが多くなっていきました。帝はか弱いその人をますます愛おしく思われ、周囲が非難するのも気にされることなく、世間話の種にもなりそうなほどの扱いぶりでした。上達部や殿上人なども感心できずに横目で見つつ、「まことに目も当てられないほどの御寵愛ぶりである。唐の国でもこうしたことがあったからこそ、世の中が乱れて悪くなったのだ」と、しだいに世間一般にもどうしようもない悩みの種となっていました。楊貴妃の例も引き合いに出されそうな勢いで、たいそう居心地の悪いことが多くなっていったのですが、その人は身に余る帝の心づかいが比類ないことを心の支えにして、宮仕えを続けておりました。

 父大納言はすでに亡くなっていて、母北の方は古くから由緒のある家柄のお方でした。両親ともに健在で、今を時めく華やかな女御たちにもそれほど見劣りすることなく、母君はどんな儀式もうまく取り繕っておられました。けれども、これといって太い後ろ盾がないので、格別な祭事が行われる時はやはり頼れるところがなく、心細そうに見えました。

 その人は前世でも、帝との御縁が深かったのでしょうか。世にまたとないほど清らかな、美しい玉のような皇子さえお生まれになりました。いつかいつかと心待ちにされていた帝は、急いで宮中に呼び寄せてご覧になると、めったにないほどかわいらしいお顔の乳児であります。先にいらっしゃる第一皇子は、高貴な右大臣家の女御がお生みになった子です。後ろ盾が厚く、皇太子になられるお方として大切に育てられていると、疑いなく世に知られておりました。ですが新しく生まれた皇子の、この輝くような美しさには到底及びません。表向きは第一皇子として相応に扱われるぐらいで、内心はこの若君こそをば大切にしたいとお思いになり、帝は限りない愛情を注がれるのでした。

 その人はもともと、普通の宮仕えをなさるような軽い身分ではありませんでした。後宮での評判はとても高く、貴人らしく振る舞っておられたのです。けれども、帝が節度を越えて側に付き添わせるあまり、宮中で催される管絃のお遊びや、何でも風情ある催し事があるたびに、真っ先にその人をお呼び寄せなさいます。ある時は日が高くなるまで一緒に寝過ごされ、その日もそのまま帝の側に仕えるなどということもあったのです。帝が一途にその人を側から離さないので、軽々しく扱われている身分に見えることもありました。それがこの美しい若君がお生まれになってからは、たいそうな特別扱いを心に決めておられる様子です。第一皇子の母君は、「悪くすると、この若君が皇太子になるかもしれない」と疑い始めました。誰よりも先に後宮へ入り、帝の御寵愛も並大抵ではなく、第一皇子の他にも御子たちをお産みになった女御です。このお方のご意見だけはやはり無視できず、帝は気がかりに感じておられました。

 その人は尊い帝の御庇護を頼りにしておりましたが、上から目線で欠点をあら探しする女御たちが大勢います。体はか弱く、心は繊細な人でしたので、必要以上にいろいろと思い悩んでおられました。更衣のお部屋は桐壺にあります。帝がいらっしゃる清涼殿から遠く離れており、桐壺へ通うには女御たちが待つ部屋の前をいくつも通る必要がありました。帝は途中の部屋に立ち寄ることなく、しかも足しげく通われるのですから、素通りされた女御たちが嫉妬するのはいかにも当然なことと思われます。桐壺更衣が清涼殿へ参上される際も、あまりに頻繁に繰り返される場合には、殿舎へ渡る橋や廊下のあちこちに、えげつないいたずらを仕掛けました。桐壺更衣の送迎に付き添う女房たちの着物の袖が、我慢ならないほどダメになってしまうこともあります。ある時には、どうしても通らないといけない通路の戸を閉じ、桐壺更衣一行の先頭側と後尾側とで息を合わせて鍵をかけ、その間に閉じ込めたことも。更衣たちを困らせて、うんざりさせることが多かったのです。事あるごとに、数えきれないほどイジメが増すばかり。更衣はどうすればいいのかわからなくなってしまい、大変ひどく思い悩んでおられました。その様子を「なんとかわいそうに」と御覧になった帝は、清涼殿の隣りにある後涼殿に以前から部屋をいただいていた更衣に、他の部屋へ移るよう命じます。そしてその部屋を桐壺更衣にお与えになり、清涼殿へ召された際の控えの部屋として使わせるようにしたのです。追い出された側の更衣は、恨みを晴らすすべもなく途方に暮れたことでしょう。

桐壺(2)この御子、三になりたまふ年

原文

 この御子みこみつになりたまふ年、御袴着はかまぎのこと、一の宮のたてまつりしに劣らず、内蔵寮くらづかさ納殿をさめどののものを尽くしていみじうせさせたまふ。それにつけても世のそしりのみおほかれど、この御子のおよすげもておはする御容貌かたち、心ばへ、ありがたくめづらしきまで見えたまふを、えそねみあへたまはず。ものの心知りたまふ人は、「かかる人も世にでおはするものなりけり」と、あさましきまで目をおどろかしたまふ。

 その年の夏、御息所みやすんどころはかなきここにわづらひて、まかでなんとしたまふを、いとまさらにゆるさせたまはず。年ごろ常のあづしさになりたまへれば、御目馴めなれて、
「なほしばしこころみよ」
とのみのたまはするに、日々におもりたまひて、ただ五六日のほどにいとよわうなれば、母君泣く泣くそうして、まかでさせたてまつりたまふ。かかる折にも、あるまじきはぢもこそとこころづかひして、御子みこをばとどめたてまつりて忍びてぞでたまふ。

 限りあれば、さのみもえとどめさせたまはず。御覧じだに送らぬおぼつかなさを言ふかたなくおぼさる。いとにほひやかにうつくしげなる人の、いたうおもせて、いとあはれとものをおもひしみながら、ことでても聞こえやらず、あるかなきかに消え入りつつものしたまふを御覧ずるに、かた行くすゑおぼしめされず。よろづのことを泣く泣く契りのたまはすれど、御いらへもえ聞こえたまはず、まみなどもいとたゆげにて、いとどなよなよと、我かの気色にて臥したれば、いかさまにと思し召しまどはる。手車てぐるませんなどのたまはせても、またらせたまひて、さらにえゆるさせたまはず。
「限りあらん道にもおくれさきたじと、ちぎらせたまひけるを、さりともうち捨ててはえきやらじ」
とのたまはするを、女もいといみじと見たてまつりて、

  限りとてわかるる道の悲しきにいかまほしきはいのちなりけり

「いとかくおもひたまへましかば」
と息も絶えつつ、聞こえまほしげなることはありげなれど、いと苦しげにたゆげなれば、かくながらともかくもならんを御覧じはてんとおぼしめすに、
今日けふ始むべき祈りども、さるべき人々うけたまはれる、今宵こよひより」
と聞こえ急がせば、わりなくおもほしながらまかでさせたまふ。

 御むねつとふたがりて、つゆまどろまれず、明かしかねさせたまふ。御使つかひの行き交ふほどもなきに、なほいぶせさを限りなくのたまはせつるを、
「夜中うち過ぐるほどになん絶えはてたまひぬる」
とて泣きさわげば、御使つかひもいとあへなくて帰りまゐりぬ。聞こしめす御心まどひ、何ごともおぼしめし分かれず、こもりおはします。

 御子みこはかくてもいと御覧ぜまほしけれど、かかるほどにさぶらひたまふ例なきことなれば、まかでたまひなんとす。何ごとかあらむともおぼしたらず、さぶらふ人びとの泣きまどひ、うへも御涙のひまなく流れおはしますを、あやしと見たてまつりたまへるを、よろしきことにだにかかる別れの悲しからぬはなきわざなるを、ましてあはれに言ふかひなし。

 限りあれば、例のほふにをさめたてまつるを、母北の方、
「同じ煙にのぼりなん」
と泣きこがれたまひて、御送りの女房の車に慕ひ乗りたまひて、愛宕おたぎといふ所にいといかめしうそのほふしたるにおはしつきたる心地、いかばかりかはありけむ。
「むなしき御からを見る見る、なほおはするものと思ふがいとかひなければ、灰になりたまはんを見たてまつりて、今は亡き人とひたぶるに思ひなりなむ」
とさかしうのたまへれど、車よりも落ちぬべうまろびたまへば、「さは思ひつかし」と、人々もてわづらひきこゆ。

 内裏うちより御使あり。三位みつくらゐ贈りたまふよし、勅使ちよくし来てその宣命せんみやう読むなむ悲しきことなりける。女御とだに言はせずなりぬる、かずくちしうおぼさるれば、いま一刻ひときざみの位をだにと贈らせたまふなりけり。これにつけても憎みたまふ人々多かり。ものおもひ知りたまふは、さまかたちなどのめでたかりしこと、心ばせのなだらかにめやすく憎みがたかりしことなど、今ぞおぼづる。さまあしき御もてなしゆゑこそすげなうそねみたまひしか、人柄ひとがらのあはれになさけありし御心を、うへ女房にようばうなどもひしのびあへり。「なくてぞ」とはかかるをりにやと見えたり。

現代語訳

 若君が3歳になられた年、袴着の儀式がありました。第一皇子がお召しになったのに劣らず、帝は宮中に納められている貴重な装飾品の数々をお使いになり、式は盛大に執り行われたのでした。それにしても世間では非難ばかりが多かったのに、若君が生まれ持った美しいお顔や才気あふれるお姿が、成長するにつれて世にも珍しいほどに輝いてまいりましたので、女御たちもさすがに嫉みきれません。分別のある人は、「こんなにも選ばれし者が世に現れることもあるのか」と、驚きあきれんばかりに目を見張っています。

 その年の夏、桐壺更衣は意識がぼんやりとする気鬱な病を患い、実家に下がって養生したいと申し出ました。でも帝は、少しの休暇も許してくださいません。ここ数年いつも病気がちでしたので、なれてしまった帝は、
「今しばらく様子をみよう」
とおっしゃるばかり。病は日に日に重くなり、ほんの5~6日でひどく弱ってしまいました。更衣の母君が泣く泣く帝に申し上げることで、ようやく実家へ下がることが許可されました。このような場合でも、女御たちに想定外の恥をかかされてはいけないと用心して、更衣はこっそりと退出なさいます。

 規則により、穢れである病人を宮中にとどめ置くことは禁忌とされているため、帝もそうむやみに更衣を引きとどめることはできません。帝という神聖な立場であるがゆえに、病人を見送ることさえ許されないもどかしさを、言葉にできないほど感じておられます。更衣はとてもつややかで美しい人であったのに、今やすっかりやつれてしまいました。いたたまれない寂しさをしみじみと感じながらも、言葉に出して申し伝えることもできません。生きているのか死んでいるのかわからないほど弱々しく、そのまま消え入りそうに退出していきます。衰弱しきった更衣を御覧になった帝は、過去を振り返ることも、将来を考えることもできなくなってしまいました。帝は涙を流しながらあれこれとお約束なさいますが、更衣はお返事を申し上げることもできません。目のまなざしにもまったく力が感じられず、体はいつにも増してなよなよとしています。自分も分からないほどもうろうとした意識でうつむいているので、帝は「どうすることもできないのか」と気が動転しています。特別に手車で宮中に出入りすることなどを許可されてからも、帝はまた更衣の部屋にお入りになり、どうしても手放すことができません。
「死ぬ時は一緒だと約束していたのに、まさかわたし一人を置いては行けないでしょう」
とおっしゃる帝の姿を、更衣もたいそう切なくお見上げして、

  限りとてわかるる道の悲しきにいかまほしきはいのちなりけり

「このように生きたいと強く思っておりましたなら」
と、息も絶え絶えに、まだ何か申し伝えたいことがありそうでしたが、あまりに苦しくて話す力も出ないようです。帝は歌を返すこともなく、宮中の禁忌を破って更衣の成り行きをこのまま最後まで見とどけたいとお思いになります。しかし更衣の母君が、
「今日から始めることになっている祈祷のもろもろを、しかるべき専門の方々が準備しております。それが今夜からですので」
と申し上げて急がせるので、帝はどうしようもなく辛いお気持ちのまま退出を許可されたのでした。

 帝は心をすっかり閉じられて、少しの間も眠ることができず、夜を明かせずにいます。お見舞いに送った使いの者が里を往復するだけの時間も経っていないのに、心がそわそわして仕方がないとずっと話しておられました。
「夜中を過ぎた頃に、とうとう息を引き取っておしまいになりました」
更衣の里では、人々が声を荒げて泣いていました。使いの者はすっかり気落ちしてしまい、あっけなく帰ってまいります。使いの者から話を聞いた帝は気が動転し、何事も正常な判断ができず、お部屋に引きこもってしまいました。

 帝はこのような時でも、若君を側に置いて御覧になりたいのですが、母の喪中に若君が宮中にいるというのは例のないことですので、若君を更衣の里へと退出させました。若君は何が起きたのかわからず、女房たちが泣いて取り乱し、帝まで涙をずっと流しているのを不思議に思って見ています。ただでさえ親子の別れは悲しくて仕方がないのに、母の死を理解できない若君はますます哀れで、かける言葉もありません。

 桐壺更衣との最後のお別れを惜しむにも限りがあり、定めがありますので、通例のしきたりに従って火葬で送ることになりました。通例では親が子の火葬に参列することはないのですが、母君の北の方は、
「娘と同じに煙になって立ち昇りたい」
と泣き焦がれ、御葬送の女房の車のあとを追って乗り込んでしまいます。愛宕おたぎという葬送の地で、大変おごそかに執り行われている葬儀の最中に到着された時のお気持ちは、どれほどであったでしょうか。
「魂の抜けた亡骸をよくよく見ては、なおも生きていらっしゃるものと思う自分がどうにもやるせないのです。いっそ灰になってしまわれるのを見とどけて、今は亡き人とひたすらに思い切りましょう」
と気丈におっしゃいましたが、車から落ちようかというほどよろめいておられます。「そうなるだろうと思っていた通りですね」と、女房たちも扱いに困っていました。

 宮中から勅使がお見えになりました。亡き更衣に三位の位を贈るため、勅使が宣命を読みあげるのが何とも悲しく感じられます。帝は女御とさえ言わせずじまいだったことが心残りで口惜しくお思いになり、せめてもう一段上の位をと贈られたのです。このことでも更衣を憎む人々が多くいました。そんな中でも良心がある人は、更衣の品格や容姿が立派で美しかったことや、内面も穏やかで人当たりが良く、とても憎まれるような人ではなかったことなどを、今更のように思い出しています。あまりに見苦しい帝の御寵愛があったからこそ冷淡に嫉んでいましたが、人柄がやさしくて思いやりのある心持ちを、帝のそばに仕える女房たちも懐かし思い合っておられました。「亡くてぞ人は恋しかりける」と古い歌にあるのは、このような折の心であろうよと思われます。

桐壺(3)はかなく日ごろ過ぎて

原文

 はかなく日ごろ過ぎて、のちのわざなどにもこまかにとぶらはせたまふ。ほどるままに、せむかたなう悲しうおぼさるるに、御方々かたがたの御宿とのなども絶えてしたまはず、ただ涙にひちて明かし暮らさせたまへば、見たてまつる人さへ露けき秋なり。
「亡きあとまで人の胸あくまじかりける人の御おぼえかな」
とぞ、弘徽こき殿でんなどにはなほゆるしなうのたまひける。一の宮を見たてまつらせたまふにも、若宮の御こひしさのみおもほしでつつ、親しき女房、御乳母などを遣はしつつ、ありさまを聞こしめす。

 わきだちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、常よりもおぼづることおほくて、靫負命婦ゆげひのみやうぶといふをつかはす。ゆふつくのをかしきほどに出だし立てさせたまひて、やがてながめおはします。かうやうのをりは、御遊びなどせさせたまひしに、心ことなるもののをかき鳴らし、はかなく聞こえづることも、人よりはことなりしけはひかたちの、面影おもかげにつとひておぼさるるにも、やみのうつつにはなほおとりけり。

 命婦みやうぶかしこにで、着きてかど引きるるより、けはひあはれなり。やもめみなれど、人ひとりの御かしづきにとかくつくろひ立てて、めやすきほどにて過ぐしたまひつる、やみに暮れてし沈みたまへるほどに、草も高くなり、わきにいとど荒れたるここして、月影ばかりぞ八重やへむぐらにもさはらずさしりたる。みなみおもてに下ろして、母君もとみにえものものたまはず。
「今までとまりはべるがいときを、かかる御使つかひ蓬生よもぎふつゆ分けりたまふにつけても、いと恥づかしうなん」
とて、げにえたふまじく泣いたまふ。
「『まゐりてはいとど心苦しう、こころぎもも尽くるやうになむ』と、典侍ないしのすけそうしたまひしを、もの思うたまへ知らぬ心地にも、げにこそいとしのびがたうはべりけれ」
とて、ややためらひておほせこと伝へきこゆ。

「『しばしは夢かとのみたどられしを、やうやうおもしづまるにしも、さむべきかたなく耐へがたきは、いかにすべきわざにかとも問ひ合はすべき人だになきを、忍びてはまゐりたまひなんや。若宮のいとおぼつかなく露けき中にぐしたまふも、心苦しうおぼさるるを、とくまゐりたまへ』などはかばかしうものたまはせやらず、むせかへらせたまひつつ、かつは人も心弱く見たてまつるらんと、おぼしつつまぬにしもあらぬ御けしきの心苦しさに、うけたまはりてぬやうにてなんまかではべりぬる」
とて、御ふみたてまつる。
「目も見えはべらぬに、かくかしこきおほごとを光にてなむ」
とて見たまふ。

 ほどば少しうちまぎるることもやと、待ちぐす月日にへて、いと忍びがたきはわりなきわざになん。いはけなき人をいかにとおもひやりつつ、もろともにはぐくまぬおぼつかなさを、今はなほむかしのかたになずらへてものしたまへ。

などこまやかに書かせたまへり。

  みや城野ぎのつゆ吹きむすぶ風のおとはぎがもとをおもひこそやれ

とあれど、え見たまひてず。

現代語訳

 なんでもない日々が過ぎて、帝は更衣の七日法要などにも丁寧に弔問の使者を送られます。月日が経つにつれて、帝はどうしようもなく悲しく思うばかりで、女御たちの夜のお仕えなどもすっかりありません。ただ涙に濡れて夜を明かす毎日で、帝を拝する人々さえも涙の露でしめっぽい空気の秋になりました。
「亡き後まで人の心をざわつかせる女の御追憶ですか」
と、弘徽殿女御こきでんのにょうごの周囲ではなおも手厳しくおっしゃっています。帝は一の宮を御覧になる時でも、若宮への恋しい気持ちばかりが思い出されるありさま。信頼できる女房や乳母などを、若宮のいる更衣の里へと差し向けて、若宮の様子を尋ねるのでした。

 荒々しい風が吹いて、急に肌寒くなった秋の夕暮れ時に、帝はいつにもまして思い出されることが多く、靫負命婦ゆげいのみょうぶという使いを送りました。夕月が美しく光る空のもと出発させなさると、そのままもの思いにふけっておられます。このような風情のある時節には管絃の御遊びなどをお楽しみになりましたが、やさしく美しい音色を奏でて、透き通った声で歌い出す言の葉も、更衣は他の人よりは違っていました。幻影にじっと寄り添って思いなさるも、かつて闇の中で触れた現実の更衣にはやはり及びません。

 命婦は慎んで更衣の実家へ参り、到着して車を門に引き入れると、もうすでにもの寂しい雰囲気が漂っています。更衣の母君はお一人で暮らしていましたが、娘ひとりを大切に育てるためにあれやこれやと整えて、見た目に申し分ない程度には自宅を手入れされておりました。しかし心が闇に暮れ、悲しみに沈んでいるうちに、草は高く伸び、秋の強風で吹き倒され、ひどく荒涼としたありさまです。月の光ばかりが幾重にも生い茂ったつる草にも遮られずにさし入っています。母君は南側の部屋に命婦を招き入れますが、すぐには言葉が出てきません。
「今までこの世にとどまり続けてきたことがとてもつらくて、このような御使いの方が草をかき分けてお入りになるにつきましても、大変お恥ずかしいことでございます」
と言いいながら、涙をこらえきれないように泣いておられます。
「こちらに伺いましたところ大変心苦しく、精神をえぐられるようでしたと、先に見舞った典侍ないしのすけが帝に申し上げておりました。わたしのような物事の情趣をわきまえない心持ちにも、まことにどうにも感情を隠しきれないことでございます」
と言い、少々ためらって帝のお言葉をお伝え申します。

「帝は涙でむせ返りながら、『しばらくは夢かとばかり思い迷っていたところ、少しずつ気持ちが冷静になるものの、現実は夢から覚めるすべもなく耐えがたいものです。どうすれば受け入れられるのかと、相談すべき相手さえいないので、内密に宮中へ来てくれませんか。若宮が心細くめそめそとした空気の中で過ごしているのも心苦しく思うゆえ、早く参上したまえ』など、はきはきと最後までは仰せになりませんでした。一方で、心が弱い帝だと映ってはしまわないかと、人目を忍ばないでもない御様子が心苦しく、すべてをお聞きすることもできないまま退出してまいりました」
と言って、帝の御手紙を差し上げました。
「涙で目も見えませんが、このような尊い帝のお言葉を月の光を明かりにして読みましょう」
と言って御覧になります。

 時がたてば少しは悲しみが紛れることもあろうかと、ただ待ちながら過ごす月日に添えてひどく耐え難くなるのは、理性で割り切れるようなことではありません。幼い若君はどうしているだろうかと思いやりつつ、あなたと共に育てられないことがもどかしいのです。今はやはり、このわたしを故人の形見と思って宮中においでなさい。

など、丹念にお書きになっている。

  宮城野の露吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ

とありますが、母君は最後まで拝読することができません。

桐壺(4)宮は大殿籠りにけり

原文

いのちながさの、いとつらうおもうたまへ知らるるに、まつおもはんことだに恥づかしうおもうたまへはべれば、ももしきに行きかひはべらんことはまして、いとはばかおほくなむ。かしこきおほごとをたびたびうけたまわりながら、みづからはえなむおもひたまへ立つまじき。若宮わかみやはいかにおもほし知るにか、まゐりたまはんことをのみなんおぼし急ぐめれば、ことわりに悲しう見たてまつりはべるなど、うちうちにおもうたまへるさまをそうしたまへ。ゆゆしき身にはべれば、かくておはしますもいまいましうかたじけなくなむ」
とのたまふ。

 みや大殿おほとのごもりにけり。
「見たてまつりて、くはしう御ありさまもそうしはべらまほしきを、待ちおはしますらんに、夜ふけはべりぬべし」
とて急ぐ。
「くれまどふ心のやみも、へがたき片端かたはしをだにるくばかりに聞こえまほしうはべるを、わたくしにも心のどかにまかでたまへ。としごろ、うれしくおもたしきついでにて立ち寄りたまひしものを、かかる御消息せうそこにて見たてまつる、かへすかへすつれなきいのちにもはべるかな。生まれし時よりおもふ心ありし人にて、故大納言いまはとなるまで、『ただ、この人の宮仕みやづかへの本意ほい、かならずげさせたてまつれ。われくなりぬとてくちしう、おもひくづほるな』と、かへすかへすいさめおかれはべりしかば、はかばかしううしろおもふ人もなきじらひは、なかなかなるべきこととおもひたまへながら、ただかの遺言ゆいごむたがへじとばかりに、だし立てはべりしを、身にあまるまでの御心ざしの、よろづにかたじけなきに、ひとなきはぢかくしつつじらひたまふめりつるを、人のそねみ深く積り、安からぬことおほくなり添ひはべりつるに、横様よこさまなるやうにてつひにかくなりはべりぬれば、かへりてはつらくなむ、かしこき御心ざしをおもひたまへられはべる。これもわりなき心のやみになん」
と、言ひもやらずむせかへりたまふほどに夜もふけぬ。
うへもしかなん。『わが御心ながら、あながちに人目おどろくばかりおぼされしも、ながかるまじきなりけりと、今はつらかりける人のちぎりになむ世に、いささかも人の心をまげたることはあらじとおもふを、ただこの人のゆゑにて、あまたさるまじき人のうらみをひしはて、はてはかううち捨てられて、心をさめむかたなきに、いとど人わろうかたくなになりはべるも、先の世ゆかしうなむ』とうちかへしつつ、御しほたれがちにのみおはします」
と、語りて尽きせず。泣く泣く、
「夜いたうふけぬれば、今宵こよひ過ぐさず、御かへそうせむ」
と、急ぎまゐる。

 月はがたに、空きようみわたれるに、風いとすずしくなりて、草むらの虫の声々こゑごゑもよほしがほなるも、いと立ち離れにくき草のもとなり。

  鈴虫のこゑの限りを尽くしても長き夜あかずふる涙かな

えも乗りやらず。

  いとどしく虫のしげきあさ茅生ぢふに露おき添ふる雲の上人うへびと

「かごとも聞こえつべくなむ」
と、言はせたまふ。をかしき御贈りものなどあるべきをりにもあらねば、ただかの御かたにとて、かかるようもやと残したまへりける御装束さうぞくひとくだり、ぐしげの調てうめくものへたまふ。若き人々、悲しきことはさらにも言はず、うちわたりを朝夕あさゆふにならひて、いとさうざうしく、うへの御ありさまなどおもできこゆれば、とくまゐりたまはんことをそそのかしきこゆれど、かくいまいましき身のひたてまつらんも、いとひとかるべし、また見たてまつらでしばしもあらむはいとうしろめたうおもひきこえたまひて、すがすがともえまゐらせたてまつりたまはぬなりけり。

現代語訳

「命の長いことがこんなにもつらいと思い知らされますと、長寿の松の木にまだ生きているのかと思われることさえ恥ずかしく思いますので、宮中に出入りしますことはまして、大変恐れ多いことでございましょう。もったいない帝のお言葉をたびたび承りながら、わたし自身はとても決心できそうにありません。若宮はどのようにして悟られたのか、宮中へお帰りになることばかりをお急ぎのようでございます。祖母として若宮とのお別れがもっともなことと悲しくお見受けいたしておりますことなど、それぞれの心のうちを帝にお伝えくださいませ。わたしは夫にも娘にも先立たれた不吉な身でございますので、こうして若宮がおられることも忌々しく恐れ多いことで⋯⋯」
とおっしゃいます。

 若宮はもうお休みになられました。
「若宮のお顔を拝ませていただいて、うるわしい御様子も帝に報告させていただきたく存じますが、帝も宮中でお待ちになっておられるでしょうから、夜も更けてしまわないうちに⋯⋯」
と帰りを急いでいます。
「まっ暗に暮れ惑う心の闇も、耐えがたい思いの片端だけでも晴れるまでお話したいと存じますので、勅使としてではなく私的にごゆっくりとお越しくださいませ。ここ数年は喜ばしく晴れやかな折にお立ち寄りくださいましたものを、このような悲しいお便りの御使いとしてお目にかかろうとは、まったくもってつれない命でありますかな。生まれた時より志のある娘でしたので、亡き夫大納言は臨終の間際まで、『ただ、この子の宮仕えの志だけは、必ず果たしてあげてください。わたしが死んだからといって悔しく思い、気落ちさせないように』と、くり返しご忠告を残されました。しっかりとした後見を考える人もいない中での宮仕えは、むしろ厳しいことであろうと思いながらも、ただ夫の遺言に背いてはいけないとばかりに宮仕えへ出させました。すると身に余るまでの御厚意をいただき、すべてにおいてありがたいことで、周囲から人並みに扱われない恥を隠しながら宮仕えをしていたようです。そのうち他の人々の嫉妬が深く積み重なり、穏やかでないことが多くつきまとっていたことにより、呪われたかのような様子でとうとう亡くなってしまいました。かえってつらかったであろうと、もったいない御厚意をそのように思ってしまうのでございます。これも分別を失った心の闇ゆえでしょうか⋯⋯」
と、言いも終わらず涙でむせ返られているうちに、夜もふけてしまいました。
「帝もそのようにおっしゃっております。『わたしの真心であったとはいえ、あれほど一途に人目を驚かせるほど愛したのも、きっと長くない運命であったのだろう。今思い起こすと、つらかった前世からの宿縁であろう今世で、更衣はいささかも人の心をねじ曲げたことはないはずだと思うのに、ただこの人の身分のために、数多くのすじ違いな人の恨みを背負って果ててしまった。果てはこうもうち捨てられて、心を鎮めようにもすべがなく、いよいよ人聞きが悪くかたくなになってしまったのも、先の世を見てみたいものだ』と、くり返されながら、涙で御袖を濡らすことが多くなるばかりでございます」
と、命婦も語り尽くせません。泣く泣く、
「夜もすっかりふけてしまいましたので、今宵は過ごさず、御返事を帝にお伝えいたしましょう」
と言って急ぎなさいます。

 月の沈むころ、空は清らかに澄みわたり、風はすっかり涼しくなって、草むらの虫の声々が涙を誘うようであるのも、とても立ち離れがたい草のもとです。

  鈴虫のこゑの限りを尽くしても長き夜あかずふる涙かな

と命婦は歌を詠み、どうにも車に乗れずにいます。

  いとどしく虫のしげきあさ茅生ぢふに露おき添ふる雲の上人うへびと

「うわ言の一つも申してしまいそうで⋯⋯」
と、女房から伝えさせました。風情のある贈り物などあるような状況でもないので、わずかに亡き更衣の御形見として、このような用もあるやもしれないと残しておいた御衣装の一式、御髪上げの日用品らしいものを添えられました。更衣に仕えていた若い女房たちは、更衣の死が悲しいことは改めて言うまでもなく、宮中への朝夕の出入りが習慣になっておりましたので、まことに心寂しい気持ちです。帝の御姿などを思い出して申し上げると、宮中へ早く参内なさってはとそそのかしているように聞こえますが、「このような忌々しい身で若宮にお付き添いいたそうにも、さぞかし世間体が悪くつらいでしょう。また、若宮のお顔を拝めない日が少しでもあろうことが心から不安なのです」と思いなさるので、きっぱりと若宮を連れて参ることもできないのでした。

桐壺(5)命婦は、まだ大殿籠らせたまはざりけると

原文

 命婦みやうぶは、「まだ大殿籠おほとのごもらせたまはざりける」と、あはれに見たてまつる。まへ壺前栽つぼせんざいのいとおもしろきさかりなるを御覧ずるやうにて、忍びやかに心にくき限りの女房四五人さぶらはせたまひて、御物語りせさせたまふなりけり。このごろ、明け暮れ御覧ずる長恨歌ちやうごんかの御亭子院ていじのゐんのかかせたまひて、伊勢いせ貫之つらゆきに詠ませたまへる、大和やまとことをも、唐土もろこしの歌をも、ただそのすぢをぞ、枕言まくらごとにせさせたまふ。

 いとこまやかにありさまはせたまふ。あはれなりつること忍びやかにそうす。御返り御覧ずれば、
「いともかしこきはおきどころもはべらず。かかるおほことにつけても、かきくらすみだごこになむ」

  あらかぜふせぎしかげの枯れしよりはぎうへ静心しづこころなき

などやうにみだりがはしきを、「心をさめざりけるほど」と御覧じゆるすべし。

 いとかうしも見えじとおぼししづむれど、さらにえ忍びあへさせたまはず、御覧じはじめし年月としつきのことさへかき集め、よろづにおぼし続けられて、時の間もおぼつかなかりしを、「かくても月日はにけり」と、あさましうおぼしめさる。
「故大納言の遺言ゆいごむあやまたず、宮仕みやづかへの本意ほい深くものしたりしよろこびは、かひあるさまにとこそおもひわたりつれ、言ふかひなしや」
とうちのたまはせて、いとあはれにおぼしやる。
「かくても、おのづから若宮わかみやなどでたまはば、さるべきついでもありなむ。命長いのちながくとこそおもねんぜめ」
などのたまはす。

 かの贈り物御覧ぜさす。「亡き人のみかたづでたりけむしるしのかむざしざしならましかば」とおもほすも、いとかひなし。

  たづねゆくまぼろしもがなつてにてもたまのありかをそこと知るべく

にかける楊貴妃やうきひのかたちは、いみじき絵師といへども、筆限りありければいとにほひ少なし。大液芙蓉たいえきのふよう未央柳びやうのやなぎも、げにかよひたりしかたちを、からめいたるよそひはうるはしうこそありけめ、なつかしうらうたげなりしをおぼづるに、花鳥の色にもにもよそふべきかたぞなき。朝夕の言種ことくさに、「はねをならべ、枝をかはさん」と契らせたまひしに、かなはざりける命のほどぞ、尽きせずうらめしき。

 かぜおとむしにつけて、もののみ悲しうおぼさるるに、弘徽こき殿でんには、久しくうへの御つぼねにものぼりたまはず、月のおもしろきに、ふくるまであそびをぞしたまふなる、いとすさまじうものしと聞こしめす。このごろの御けしきを見たてまつる上人うへびと、女房などは、かたはらいたしと聞きけり。いとおしちかどかどしき所ものしたまふ御方にて、ことにもあらずおぼし消ちてもてなしたまふなるべし。

 月もりぬ。

  雲のうへも涙にるる秋の月いかで住むらむ浅茅生あさぢふの宿

 おぼしめしやりつつ、灯火ともしをかかげ尽くして起きおはします。右近のつかさ宿直とのゐまうしのこゑ聞こゆるは、うしになりぬるなるべし。人目をおぼして、よる御殿おとどらせたまひても、まどろませたまふことかたし。あしたに起きさせたまふとても、「くるも知らで」とおぼづるにも、なほあさまつりごとはおこらせたまひぬべかめり。ものなども聞こしめさず、朝餉あさがれひのけしきばかり触れさせたまひて、大床子だいしやうじものなどはいとはるかにおぼしめしたれば、陪膳はいぜんにさぶらふかぎりは心ぐるしき御けしきを見たてまつりなげく。すべて、ちかうさぶらふかぎりは、をとこをんな
「いとわりなきわざかな」
と言ひ合はせつつなげく。
「さるべきちぎりこそはおはしけめ。そこらの人のそしり、うらみをもはばからせたまはず、この御ことに触れたることをばだうをも失はせたまひ、いまはた、かく世中よのなかのことをもおもほし捨てたるやうになりゆくは、いとたいだいしきわざなり」
と、人のみかどのためしまで引きで、ささめきなげきけり。

現代語訳

 宮中に戻った命婦は、帝がまだ御寝所に入っておられないのを気の毒に思います。帝は大変美しい盛りを迎えている中庭の草木の秋花を御覧になるふりをして、奥ゆかしい女房4~5人を仕えさせて、ひそやかにお話をしておられました。ここ数日の間、明けても暮れても御覧になっているのは、長恨歌の屏風絵。宇多天皇が絵師に描かせて、伊勢や貫之に歌を添えさせた絵です。その和歌にしても漢詩にしても、ただもう恋人との死別を悲しむ歌ばかりを、口ぐせのように話題にしていらっしゃいます。

 帝は命婦に、それはもう事細かに更衣の実家の様子をお尋ねになります。命婦はまことに哀れであったことを、粛々と申し上げました。帝は母君からの御返事を御覧になると、
「これほどもったいない帝の御手紙は、悠長に置いておける場所もございません。このような仰せ言につきましても、真っ暗に思い乱れる心地でございます」

  あらかぜふせぎしかげの枯れしよりはぎうへ静心しづこころなき

などというように無作法な返歌を、心を冷ませずにいた時のことと寛大に御覧になるでしょう。

 帝は、「こうまでひどく取り乱すさまを決して見られてはなるまい」と思い鎮められますが、まったく隠しきれません。更衣を初めて御覧になった時からの思い出までかき集めて、次から次へと思い続けられます。ほんの少しの間も更衣を待ちきれなかったのが、このようなありさまでよくも月日を過ごせたものだと、驚きあきれるように思い召されるのでした。
「亡き更衣の父・大納言の遺言に背くことなく、宮仕えの志を深くまっとうしてくれたことへのお礼は、その甲斐があるようにと絶えず思い続けてきたのに、今となっては言っても仕方のないことよ」
と、帝はふと仰せになり、母君をたいそう哀れに思いやります。
「こうはなっても、そのうち若宮などが成長すれば、しかるべき機会もあろう。命長く、生きてさえいればと、一心に祈るとしよう」
などとおっしゃいます。

 命婦は母君からの贈り物を帝に御覧に入れます。「亡き人の住みかを探し出したという証のかんざしであったなら」と、お思いになるのも甲斐のないことでした。

  たづねゆくまぼろしもがなつてにてもたまのありかをそこと知るべく

絵に描いた楊貴妃の容姿は、どんなに素晴らしい絵師であっても筆に限りがありますので、生身の色気には少々かないません。太液池に咲く蓮の花のように艶やかなお顔、未央宮に伸びる柳のように細く美しい眉も、楊貴妃と更衣の容姿は実によく似通っていました。唐風の装いはさぞ麗しかったでしょうが、親しみやすく可愛らしかった更衣を思い出しますと、花鳥の色にも音にも例えようがないのです。朝夕のあいさつ代わりに、「翼をならべ、枝を交わそう」とお約束なさいましたのに、かなわなかった命の定めが尽きないことを恨めしく思います。

 風の音、虫の音につけても、帝はただただ悲しい音と思われるのに、弘徽殿の女御に至っては、久しく清涼殿の御局にも参上されません。月の美しい情緒ある夜に、遅くまで管絃のお遊びにほうけていらっしゃるのを、帝は月夜にそぐわない不愉快な音とお聞きになります。この頃の帝の御様子を拝している殿上人や女房などは、そばで聞いているだけで苦々しい思いでした。非常に我が強く、角の立つ所の多い方でしたので、更衣の死などたいした問題ではないと軽視して、そんな振る舞いをしておられたのでしょう。

 月は山の端に入りました。

  雲のうへも涙にるる秋の月いかで住むらむ浅茅生あさぢふの宿

と、母君と若宮が住む家を思いやりながら、灯火をかき立て尽くして起きていらっしゃいます。宮中に宿直する右近衛府の士官が点呼をする声が聞こえるのは、午前2時頃になったのでしょう。人目を気にされて御寝所にお入りになっても、うとうととお眠りになることも難しい。朝になってお目覚めになっても、「明けるのも知らないで」と、更衣と日が高くなるまで共にしていた日々を思い出しては、今でもなお、朝の政務を怠ることがあるようでした。お食事なども召し上がらず、略式の食事は形ばかり箸をつけるだけで、正式な食事などはとても箸が進まないとお思いになっているので、配膳係の者は皆、帝の心苦しい御様子を拝して嘆きいています。すべて、帝の側にお仕えする者は男も女も、
「まったくどうしようもないことですね」
と言い合いながら嘆くのでした。
「こうなるべき前世の約束がきっとあったのでしょう。そこら中の人々の嫉妬、恨みをもお気になさらず、この更衣に触れることにはいつも道理をも失われ、今となってはもう、このように世の中のことをもお見捨てになるありさまになっていくのは、まことに困ったことです」
と、異国の帝の例まで引き合いに出して、ひそひそと嘆いていました。

桐壺(6)月日経て、若宮参りたまひぬ

原文

 月日て、若宮まゐりたまひぬ。いとどこの世のものならず、きよらにおよすげたまへれば、いとゆゆしうおぼしたり。くるとしの春、坊定ばうさだまりたまふにも、いと引きさまほしうおぼせど、御後見うしろみすべき人もなく、また、世のうけひくまじきことなりければ、なかなか危ふくおぼはばかりて、色にもださせたまはずなりぬるを、
「さばかりおぼしたれど、かぎりこそありけれ」
と、世人よひとも聞こえ、女御も御心おちゐたまひぬ。

 かの御祖母おばきたかたなぐさかたなくおぼしづみて、おはすらん所にだにたづかむとねがひたまひししるしにや、つひにうせたまひぬれば、またこれを悲しびおぼすことかぎりなし。御子つになりたまふとしなれば、このたびはおぼし知りてひ泣きたまふ。としごろ、れむつびきこえたまひつるを、見たてまつり置く悲しびをなむかへかへすのたまひける。

 今はうちにのみさぶらひたまふ。ななつになりたまへば、読書ふみはじめなどせさせたまひて、世に知らずさとかしこくおはすれば、あまりおそろしきまで御覧ず。
「今はれもれもえにくみたまはじ。母君なくてだにらうたうしたまへ」
とて、弘徽こき殿でんなどにも渡らせたまふ御供には、やがて御簾みすの内にれたてまつりたまふ。いみじき武士もののふ、あたかたきなりとも、見てはうちまれぬべきさまのしたまへれば、えさしはなちたまはず。女御子おんなみこたちふたところ、この御はらにおはしませど、なずらひたまふべきだにぞなかりける。御方々おんかたがたも隠れたまはず、今よりなまめかしう恥づかしげにおはすれば、いとをかしう打ちとけぬあそぐさに、れもれもおもひきこえたまへり。わざとの御学問がくもんはさるものにて、こと、笛のにもくもひびかし、すべて言ひ続けばことごとしう、うたてぞなりぬべき人の御さまなりける。

 そのころ、高麗こまうどまゐれるなかに、かしこき相人さうにんありけるを聞こしめして、宮のうちに召さんことは宇多うだのみかどの御いましめあれば、いみじう忍びてこの御子を鴻臚館こうろくわんつかはしたり。御後見うしろみだちてつかうまつる大弁だいべんの子のやうにおもはせて、てたてまつるに、相人さうにん驚きてあまたたびかたぶきあやしぶ。
「国のおやとなりて、帝王ていわうかみなきくらゐのぼるべきさうおはします人の、そなたにて見れば、みだうれふることやあらむ。おほやけのかためとなりて、天下をたすくるかたにて見れば、またそのさうたがふべし」
と言ふ。

 べんもいとざえかしこき博士はかせにて、言ひかはしたることどもなむいときようありける。ふみなど作りかはして、今日けふ明日あすかへりなんとするに、かくありがたき人に対面たいめむしたるよろこび、かへりては悲しかるべき心ばへをおもしろく作りたるに、御子もいとあはれなる句を作りたまへるを、かぎりなうめでたてまつりて、いみじき贈り物どもをささげたてまつる。おほやけよりもおほくの物たまはす。おのづからことひろごりて、漏らさせたまはねど、春宮とうぐう祖父おほじ大臣おとどなど、いかなることにかとおぼし疑ひてなむありける。

 みかど、かしこき御こころに、大和やまとさうおほせておぼりにけるすぢなれば、今までこの君を親王みこにもなさせたまはざりけるを、相人さうにんはまことにかしこかりけりとおぼして、
無品むほん親王しんわう外戚げさくせなきにてはただよはさじ。わが御世もいとさだめなきを、ただ人にておほやけの御後見うしろみをするなむ行くさきたのもしげなめること」
おぼさだめて、いよいよ道々みちみちざえならはさせたまふ。きはことにかしこくて、ただ人にはいとあたらしけれど、親王みことなりたまひなば世のうたがひたまひぬべくものしたまへば、宿曜すくえうのかしこき道の人にかむがへさせたまふにも同じさまに申せば、げむになしたてまつるべくおぼしおきてたり。

現代語訳

 月日が経ち、若宮が宮廷へ参られました。いよいよこの世の者ではなく、清らかに美しく成長されているので、帝はさすがに不吉だとお思いになられています。明くる年の春、皇太子がお決まりになる時にも、帝は一の宮をさし引いて若宮に越えさせたいと強く思われましたが、若宮には後見をするであろう人もおりません。また、世の同意を得られそうにもないことですので、かえって危険が及ぶのではないかと遠慮なさい、顔色にもお出しにならずにおられました。
「それほどに若宮を思っていらっしゃったとはいえ、さすがに限界があったということでしょう」
と、世の人々もうわさし、弘徽殿女御も心が落ち着きになりました。

 かの若宮の御祖母、北の方は慰めるすべもなく思い沈み、せめて娘の更衣がおいでになる所に尋ねて行こうと願っておられました。そのしるしが現れたのでしょうか、とうとうお亡くなりになってしまいましたので、帝がまたこれを悲しく思われることは限りもありません。若宮は6歳になられる年でありましたので、このたびは死をご理解なさり、恋し慕って泣いておられます。祖母君は、年ごろは馴れ親しんで仲睦まじくされていた若宮を、成長を見届けることなく置いて逝く悲しみを、くり返しくり返し申し上げておられました。

 今は内裏にばかりいらっしゃいます。7歳になられると、帝は読書始(学問の始まりとして漢籍の読み方を習う儀式)などを行わせなさいました。世に聞き知らぬほど聡明で賢くいらっしゃるので、あまりに恐ろしき者とまで御覧になります。
「今は誰も彼も憎むことなどできないでしょう。母君がいない若宮を、せめていたわってあげてください」
とおっしゃって、弘徽殿などにもお渡りになる時の御供に連れては、やがて御簾の内に入らせなさいます。並々ならぬ武士や敵対者であろうとも、若宮を見てはついほほ笑まずにはいられない様になられるので、さし放つことができません。皇女たちがお二方、弘徽殿女御の御腹の子にいらっしゃるけれども、若宮になぞらえられることさえもないのでした。他の方々もお隠れにはならず、今よりもう艶めかしく、こちらが気恥ずかしくなるほど気品にあふれていらっしゃるので、愛嬌たっぷりで必ず打ち解けてしまう遊び相手に、誰も彼もが思い申されました。本格的な学問はさることながら、琴や笛の音についても宮中を響き渡らせ、すべて言い続けてみても、何でもことごとく異様にできてしまう人の御姿でした。

 そのころ、高麗人が参られた中に、すぐれた観相家がいたということをお聞きになられて、宮中に招待しようというのは宇多の帝の御禁戒があるため、ごくごく内密に若宮を鴻臚館に遣わせました。御後見という立場でお仕えする右大弁の子のように思わせて、右大臣に若宮を連れて伺わせると、観相家は驚いて何度も何度も首をかしげて不思議がっています。
「一国の始祖となって、帝王という上なき最高位にのぼるべき人相がおありになる人で、その方面の方として見ると、世が乱れて憂いとなることがあるでしょう。国家の柱石となって、天下を手助けする方として見れば、またその相も違ってくるようです」
と、言います。

 右大弁も非常に学識の高い博士ですので、高麗人と言い交わしたこと言葉の数々はまことに興味深いものでした。漢詩などを作り交わして、「今日明日にも帰り去ろうとする時に、こうも珍しい相のある人に対面できたよろこびは、かえって別れが悲しく感じるでしょう」という心向きを表す漢詩を面白く作ると、若宮もまことに情の深い句をお作りになられます。観相家は若宮に限りなく感心されなさって、すこぶる立派な贈り物の数々を捧げられました。宮廷からも多くの贈り物を賜わせます。自然とこの出来事が世間に広まり、帝は外に漏れないようにしてはいましたが、東宮の祖父君の右大臣などは、一体どういうことかと思い疑っていました。

 帝は賢明な御心から、大和の観相を命じられて思い及んでいた道筋でありましたので、今までこの若君を親王にもなさらずにいたのです。高麗からの観相家はまことにすぐれていたと思い、
「位のない親王を、外戚の後ろ盾もない状態で世に漂わせまい。我が治世もまったく一定ではないのだから、臣下として国家の後見をする行く先も頼もしそうなことよ」
と思い定めて、いよいよ諸芸諸道の学問を習わせました。学力はことに賢くて、臣下とするにはすこぶる惜しいけれど、親王となれば世の疑念を背負うに違いないとお考えになりながら、宿曜のすぐれた道の人に判断させても同じように申すので、源氏性の臣下にしようと思い決めました。

桐壺(7)年月に添へて、御息所の御ことを

原文

 年月としつきへて、御息所みやすんどころの御ことをおぼし忘るるをりなし。なぐさむやと、さるべき人々をまゐらせたまへど、なずらひにおぼさるるだにいとかたき世かなと、うとましうのみよろづにおぼしなりぬるに、先帝せんだいの宮の御かたちすぐれたまへる聞こえ高くおはします。 ははきさき世になくかしづき聞こえたまふを、うへにさぶらふ典侍ないしのすけは、先帝せんだいの御時の人にて、かの宮にも親しうまゐりなれたりければ、いはけなくおはしましし時より見たてまつり、今もほの見たてまつりて、
「うせたまひにし御息所みやすんどころの御かたちに似たまへる人を、三代の宮仕へに伝はりぬるにえ見たてまつりつけぬを、きさいの宮の姫宮こそ、いとようおぼえて生ひ出でさせたまへりけれ。ありがたき御かたち人になん」
と奏しけるに、まことにやと御心とまりて、ねんごろに聞こえさせたまひけり。

 ははきさき、「あなおそろしや。春宮とうぐう女御にようごのいとさがなくて、桐壺のかうのあらはにはかなくもてなされにしためしもゆゆしう」と、おぼしつつみて、すがすがしうもおぼし立たざりけるほどに、きさきもうせたまひぬ。心細きさまにておはしますに、
「ただ、わがをんな御子みこたちの同じつらにおもひ聞こえん」
と、いとねんごろに聞こえさせたまふ。さぶらふ人々、御後見うしろみたち、御うと兵部卿ひやうぶきやうの御子など、「かく心細くておはしまさむよりは、うちみせさせたまひて御心も慰むべく」などおぼしなりて、まゐらせたてまつりたまへり。

 藤壺ふぢつぼと聞こゆ。げに御かたち、ありさま、あやしきまでぞおぼえたまへる。これは人の御きはまさりて、おもひなしめでたく、人もえおとしめきこえたまはねば、うけばりて飽かぬことなし。かれは人のゆるしきこえざりしに、御こころざしあやにくなりしぞかし。おぼまぎるとはなけれど、おのづから御心うつろひて、こよなうおぼし慰むやうなるも、あはれなるわざなりけり。

 げむの君は御あたりりたまはぬを、ましてしげくわたらせたまふ御かたは、えぢあへたまはず。いづれの御かたも、我人におとらんとおぼいたるやはある、とりどりにいとめでたけれど、うちおとなびたまへるに、いとわかううつくしげにて、せちに隠れたまへど、おのづからり見たてまつる。母御息所みやすんどころもかげだにおぼえたまはぬを、
「いとよう似たまへり」
と、典侍ないしのすけの聞こえけるを、若き御ここに「いとあはれ」とおもひきこえたまひて、常にまゐらまほしく、 「なづさひ見たてまつらばや」とおぼえたまふ。

 うへも限りなき御おもひどちにて、
「なうとみたまひそ。あやしくよそへきこえつべき心地なんする。なめしとおぼさでらうたくしたまへ。つらつき、まみなどはいとようたりしゆゑ、かよひて見えたまふも、げなからずなむ」
など聞こえつけたまひつれば、幼心地をさなごこちにも、はかなきはな紅葉もみぢにつけてもこころざしを見えたてまつる。こよなう心寄せきこえたまへれば、弘徽殿女御こきでんのにようご、またこの宮とも御なかそばそばしきゆゑ、うち添へてもとよりのにくさも立ちでてものしとおぼしたり。世にたぐひなしと見たてまつりたまひ、名たかうおはする宮の御かたちにも、なほにほはしさはたとへんかたなくうつくしげなるを、世の人、「光君ひかるきみ」と聞こゆ。藤壺ふぢつぼならびたまひて、御おぼえもとりどりなれば、「かかやくの宮」と聞こゆ。

現代語訳

 年月が経つに従っても、帝は更衣との思い出をお忘れになることはありません。慰められることもあろうかと、それらしい人々を参らせなさるけれども、「更衣の面影を思うことさえまったく難しい世かな」と、疎ましいとばかり万事を思いなさっておられました。そのような折に、先帝の第四皇女が、御容貌がすぐれておられるとの評判が高くおいでです。母である先帝の后が、世にまたとなく大切に守り育てていらっしゃいました。それを帝付きの典侍は、先帝の御時にも仕えていた人で、かの第四皇女にも親しく参りなれていました。御幼少でいらした時から拝見しており、今もほのかにお見かけになると、
「亡くなられた更衣の御容貌に似ている人を、三代にわたる宮仕えを受け継いでいるうちによく見なれてしまっておりましたが、御后様の姫宮こそ、それはそっくりに似て御成長なさり、めったにおられない御容貌の人でございます」
と申し伝えたところ、「まことにや」と帝の御心にとまったので、丁寧に申し上げました。

 母の后は、「あなおそろしや。春宮の女御がとんでもなく性悪で、桐壺の更衣が露骨に軽々しく扱われた前例も忌まわしいわ」と心の内に思われて、すがすがしく思い立てないでいるうちに、后も亡くなられてしまいました。四の宮が心細い様子でいらっしゃるところに、
「ただ、私の皇女たちと同列に思いましょう」
と、丁重に申し上げなさいます。四の宮にお仕えする人々、御後見たち、御兄上の兵部卿の御子など、「このように心細いままいらっしゃるよりは、内裏にお住いになられたなら姫君の御心も慰められましょう」などお思いになって、四の宮を参らせなさいました。

 藤壺と申します。実に御容貌、雰囲気、あやしいほどに瓜二つでいらっしゃいます。こちらは御身分もまさっていて、人からの評判もめでたく、誰も見下そうにも見下せなければ、堂々と振る舞っても十分すぎることはありません。あちらは人に許されなかったために、帝の御愛情があいにくにも重くなったのです。桐壺更衣と思い違えることはなさいませんでしたが、しぜんと御心が移ろいで、こよなく思い慰められるようであるのも、あわれなる人の常でございました。

 源氏の君は帝のそばをお離れにならないので、まして足しげくお渡りになる藤壺の宮は、いつまでも恥ずかしがっているわけにはいきません。いずれの方々も、自分が人に劣っていようとは思いやしない節があり、それぞれにとてもお綺麗ではありますが、少々お年を重ねておられます。藤壺の宮はいっそう若く美しく見えるので、しきりにお顔を隠しなさっても、偶然にちらりと漏れてお目に入るのです。母君も面影さえ覚えていないので、
「大変よく似ておられますよ」
と、典侍がお話しになるのを、幼心に「なんと尊い」と思いなさって、常に参りたがって、「いつもそばでお見上げしたい」というような気持ちを覚えていらっしゃいます。

 帝も限りなくいとしく思いなさる同士ですので、
「どうかよそよそしくされないでください。あなたは不思議なほど、この君の亡き母になぞらえられるような心地がするのです。無礼だと思わないで、いたわってあげてください。顔つき、目もとなどはとてもよく似ておりますゆえ、源氏の君とあなたが似通ってお見えになるのも、不似合いではないのですよ」
などとお申し付けになられたので、源氏の君は幼心地にも、はかなく散る桜の花や紅葉につけても、寄り添う心をお見せになります。こよなく心をお寄せになるので、弘徽殿女御はまた、この藤壺の宮とも仲がよろしくないゆえ、付け加えてもとよりの憎さも出てきて不愉快だと思われています。帝が世に比類なしと御覧になり、名高くいらっしゃる藤壺の宮の御容貌にも、なお勝る源氏の君の輝かしいさまは例えようもなく美しく見えるのを、世の人、「光る君」と申し上げます。藤壺の宮もお並びになられて、帝の御寵愛もそれぞれであれば、「輝く日の宮」と世に知られます。

桐壺(8)この君の御童姿、いと変えま憂く思せど

原文

 この君の御童姿わらはすがた、いとへまおぼせど、十二にて御元服げんぶくしたまふ。居起ゐたおぼしいとなみて、かぎりあることにことをへさせたまふ。ひととせの春宮とうぐうの御元服げんぶく殿でんにてありししき、よそほしかりし御ひびきにとさせたまはず。所々ところどころきやうなど、内蔵寮くらづかさ穀倉院こくさうゐんなど、おほやけごとにつかうまつれる、おろそかなることもぞと、とりわきおほことありて、きよらをくしてつかうまつれり。

 おはします殿でんひむがしひさし東向ひんがしむきに椅子立いしたてて、冠者くわんざの御引入ひきいれ大臣おとどの御、御まへにあり。さるの時にて、源氏まゐりたまふ。みづらひたまへるつらつき、かほのにほひ、さまへたまはむことしげなり。大蔵卿おほくらきやう蔵人仕くらうどつかうまつる。いときよらなるぐしをそぐほど、心苦しげなるをうへは、御息所みやすんどころの見ましかばとおぼづるに、へがたきを、心強くねんじかへさせたまふ。

 かうぶりしたまひて、御休所やすみどころにまかでたまひて、御たてまつりへて、おりてはいしたてまつりたまふさまに、皆人みなひととしたまふ。みかどはた、ましてえ忍びあへたまはず、おぼまぎるるをりもありつる昔のこと、とりかへし悲しくおぼさる。いとかうきびはなるほどは、あげおとりやとうたがはしくおぼされつるを、あさましううつくしげさひたまへり。

 引入ひきいれ大臣おとど皇女みこばらに、ただ一人ひとりかしづきたまふ御むすめ、春宮とうぐうよりも御けしきあるを、おぼしわづらふことありける、この君にたてまつらんの御心なりけり。うちにも、御けしきたまはらせたまへりければ、
「さらば、このをり後見うしろみなかめるを、添臥そひぶしにも」
ともよほさせたまひければ、さおぼしたり。

 さぶらひにまかでたまひて、人々おほ御酒みきなどまゐるほど、親王みこたちの御すゑに源氏着きたまへり。大臣おとどけしきばみ聞こえたまふことあれど、もののつつましきほどにて、ともかくもあへしらひ聞こえたまはず。御まへより、ないせんうけたまはり伝へて、大臣おとどまゐりたまふべきしあれば、まゐりたまふ。御ろくの物、うへ命婦みやうぶ取りてたまふ。しろ大袿おほうちきに御一領ひとくだりれいのことなり。御さかづきのついでに、

  いときなきはつもとひに長き世をちぎる心は結びこめつや

御心ばへありて、おどろかさせたまふ。

  結びつる心も深きもとひにむらさきいろしあせずは

そうして、長橋ながはしよりおりてたふしたまふ。左馬寮ひだりのつかさの御馬、蔵人所くらうどどころたかすゑてたまはりたまふ。はしのもとに親王みこたち上達部かむだちめつらねて、ろくども品々にたまはりたまふ。その日のまへ折櫃物をりひつものものなど、大弁だいべんなんうけたまはりてつかうまつらせける。屯食とんじきろく唐櫃からひつどもなど、ところせきまで、春宮とうぐうの御元服げんぶくをりにも数まされり。なかなかかぎりもなくいかめしうなむ。

現代語訳

 この源氏の君のかわいらしい童の御姿を、大人の装いに変えてしまうのが惜しいと帝は思いますが、12歳で御元服されました。帝はそわそわとあれこれお世話を焼かれて、しきたりで定められていることに加えて、それ以上のおもてなしを添えさせます。先年の春宮の御元服、南殿にてとり行われた儀式が実に盛大であったとの世間の評判に、ひけをとらせないようにしているのです。あちらこちら女房たちのご馳走なども、内蔵寮や穀倉院などに向けて、通りいっぺんの用意では行き届かないこともあるやと、とりわけ特別な仰せ言がありましたので、華美の限りを尽くしてご調進されました。

 清涼殿の東側の廂に、東向きに帝がお座りになる御椅子を立てて、元服する源氏の君と加冠役の大臣の御座がその御前にあります。儀式が始まる申の時になりましたので、源氏の君がお入りになりました。角髪を結っていらっしゃる美少年の顔立ち、色つや、かわいらしいさまをお変えになろうことが惜しいようです。大蔵卿が理髪役をお務めになられます。とても清らかで美しい御髪を削いでいくにつれて、心苦しそうになるのを帝は、「亡き更衣が見ていたならば⋯⋯」と思い出されては涙がこみ上げてくるのを、心強く念じておさえています。

 加冠の儀をお済ませになり、御休み所に下がって成人の御衣装に着替えられて、東庭におりてお礼の舞を拝される御姿に、参列者は皆涙を落とされます。帝はというと、誰よりもまして涙をこらえきれず、思い紛れる折もあった昔のことを引き戻して悲しく思われます。まことにこうも幼い年頃では、元服して髪上げをすると見劣りするのではないかと疑わしくも思っておられましたが、驚き呆れんばかりの輝かしい美しさがさらに増すのでした。

 加冠役の大臣の夫人である皇女がお生みになった子に、ただ一人、大切にお育てになられていた姫君がいらっしゃいます。春宮から内々に入内の御所望があるのを、大臣に思い悩まれることがありましたのは、この源氏の君に差し上げようという御心からであったのです。帝にも御内意を賜っていたことで、
「さらば、この元服の折の後見がいないようだから、添臥にも」
と、帝が御催促されると、大臣はそのように御決心されました。

 源氏の君が御休所へ退出されて、御祝宴が始まります。参列者たちが大御酒などを召し上がっている間に、親王たちが並ぶ御座の末席に源氏の君は着かれました。大臣はそれとなく姫君とのことを申し上げますが、もの恥ずかしいお年頃でございますので、なんともお答えできずにおられます。帝の御前より、内侍が大臣の席へ来て、帝の御言葉を承り伝えました。大臣に参られるようにとのお召しでありますので、大臣は帝の御前へとお進みになります。加冠役を務めたことへの御禄の品物を、帝付きの命婦が取り次いで賜ります。白い大袿に御衣装一式、慣例のとおりでございました。帝は御盃を賜るついでに、

  いときなきはつもとひに長き世をちぎる心は結びこめつや

と、御心をこめて念をおされます。

  結びつる心も深きもとひにむらさきいろしあせずは

と、大臣は奏上し、長橋よりおりて返礼の舞踏を拝されます。左馬寮の御馬、蔵人所の鷹を据えて賜りました。御階の下に親王たちや上達部が連なり、御祝の禄の品々をそれぞれに賜ります。その日の帝の御前に供された折櫃物や籠物などは、あの右大弁が承って調進されたのでした。屯食、禄を入れた唐櫃など、所狭しといっぱいに並び、春宮の御元服の折にも数が勝っていました。むしろ規定もないことが、これまでにないほど盛大になったのでしょう。

桐壺(9)その夜、大臣の御里に

原文

 その夜、大臣おとどの御さとに源氏の君まかでさせたまふ。ほふにめづらしきまで、もてかしづききこえたまへり。いときびはにておはしたるを、ゆゆしううつくしとおもひきこえたまへり。女ぎみはすこしぐしたまへるほどに、いとわかうおはすればげなうづかしとおぼいたり。

 この大臣おとどの御おぼえいとやむごとなきに、母宮、内裏うちのひとつ后腹きさいばらになんおはしければ、いづかたにつけてもいとはなやかなるに、この君さへかくおはしひぬれば、春宮とうぐうの御祖父おほぢにて、つひに世中よのなかを知りたまふべき右大臣みぎのおとどの御いきほひは、ものにもあらずされたまへり。おんどもあまた腹々はらばらにものしたまふ。宮の御はら蔵人少将くらうどのせうしやうにていとわかうをかしきを、右大臣みぎのおとどの、御なかはいとよからねど、え見過みすぐしたまはで、かしづきたまふ四君しのきみにあはせたまへり。劣らずもてかしづきたるは、あらまほしき御あはひどもになむ。

 源氏の君は、うへの常にしまつはせば、心やすくさとみもえしたまはず。心のうちには、ただ藤壺ふぢつぼの御ありさまをたぐひなしとおもひきこえて、さやうならん人をこそめ、る人なくもおはしけるかな。大殿おほいとのの君、いとをかしげにかしづかれたる人とはゆれど、心にもつかずおぼえたまひて、をさなきほどの心ひとつにかかりて、いと苦しきまでぞおはしける。

 大人おとなになりたまひて後は、ありしやうに御簾みすうちにもれたまはず。御あそびの折々をりをりこと、笛のに聞こえかよひ、ほのかなる御こゑなぐさめにて、内裏うちみのみこのましうおぼえたまふ。五六日さぶらひたまひて、おほい殿とのに二三日など、えにまかでたまへど、ただ今はをさなき御ほどに、つみなくおぼしなして、いとなみかしづききこえたまふ。御方々おんかたがたの人々、世中よのなかにおしなべたらぬをりととのへすぐりてさぶらはせたまふ。御心につくべき御あそびをし、おほなおほなおぼしいたつく。

 内裏うちにはもとのげいおんざうにて、はは御息所みやすんどころの御かたの人々、まかでらずさぶらはせたまふ。さと殿との修理すりしき内匠寮たくみづかさ宣旨せんじくだりて、なうあらたつくらせたまふ。もとのだち、山のたたずまひ、おもしろき所なりけるを、いけの心広くしなして、めでたくつくりののしる。かかる所に、おもふやうならん人をゑてまばやとのみ、なげかしうおぼしわたる。

 光君ひかるきみといふ名は、高麗こまうどのめできこえてつけたてまつりけるとぞ、つたへたるとなむ。

現代語訳

 その夜、大臣の御邸宅へ源氏の君はお越しになりました。婚礼の作法は世に珍しいほど立派にして、大切におもてなしなさいました。いかにもあどけない美少年という様子でおいでになるのを、大臣は不吉なほど美しいと思われました。姫君はすこし年上でいらっしゃるので、源氏の君があまりに若くお見えになるのが不釣り合いで恥ずかしいと思われるのでした。

 この大臣は帝の御信任が大変厚い上に、姫君の母宮は、帝と同じ后の腹にお生まれになった兄妹でいらっしゃるのです。大臣と母宮のどちらにつけても、極めて華やかな御血統であるところに、この源氏の君までこのように婿として迎えられました。春宮の御祖父であり、とうとう世の中を治められるはずであった右大臣の御権勢は、問題にもならないほど圧倒されてしまいました。

 左大臣は子どもたちを大勢の腹々にものしていらっしゃいます。姫君と同じ母宮がお生みになった男子は、蔵人少将というこれまた若く美しい男子です。右大臣は、左大臣との御仲はあまりよろしくありませんでしたが、この少将を見過ごそうにも見過ごすことができず、大切に育てられている四の君に婿として迎えられました。左大臣に劣らず、少将を大切にもてなされているのは、両家ともまことに理想的な婿と舅の御間柄でございます。

 源氏の君は、帝が常にお召し寄せて側にいさせるので、ゆっくり姫君とお過ごしになることもできません。心のうちには、ただ藤壺の宮の御ありさまを世に類なき人と思われて、さようになるであろう人をこそ妻にしたいのですが、似る人もまあいらっしゃらないものです。左大臣殿の姫君は、いかにも姫君らしく大切に守られてきた人とは見えますが、心にもかなわないと感じられて、幼き頃に抱いた藤壺の宮への心一筋にすがって、ひどく苦しいまでに思い悩んでおられました。

 元服して大人になられた後は、帝は以前のように源氏の君を御簾のうちにもお入れになりません。管弦の御遊びの折々には、藤壺の宮が奏でられる琴に、源氏の君が笛の音を合わせて心を通わせなさり、ほのかに漏れる御声を慰めにして、宮中に住むことばかりが好ましく感じられます。5~6日は宮中にお仕えなさって、左大臣家には2~3日など、とぎれとぎれにおいでになりますが、ただ今は幼いお年頃ですので、罪は犯していないだろうとお思いになって、身の回りの用意を丁重におもてなしなさるのです。源氏の君と姫君のそれぞれに仕える女房たちは、世の中に並々でない者を慎重に選びそろえてお仕えさせております。御心にとまりそうな御遊びを催しては、精いっぱいお仕えしている感じを見せようと骨を折るのでした。

 内裏ではもとの桐壺更衣がお住まいであった淑景舎を源氏の君の御部屋にして、母御息所にお仕えしていた女房たちを、散り散りにおいとまさせずに引き続いてお仕えさせます。母君の実家は修理職、内匠寮に宣旨が下り、世に二つとない立派な改築工事を進めさせなさいます。もとの植木や築山の佇まいも趣深い所でありましたのを、池の中心を広くしてしまって、めでたく造り変える工事は大騒ぎです。源氏の君は、「かような所に、思うような人を据えて住みたいことよ」とばかり、嘆かわしく思い続けるのでした。

 光る君という名は、あの高麗人がご称賛を申し上げておつけになられたとぞ、言い伝えられていますとか。