左衛門の内侍といふ人侍り
左衛門の内侍といふ人侍り。あやしう、すずろによからず思ひけるも、え知り侍らぬ心憂きしりう言の多う聞こえ侍りし。内裏の上の、源氏の物語人に読ませ給ひつつ聞こしめしけるに、「この人は日本紀をこそ読み給ふべけれ。まことに才あるべし」とのたまはせけるをふと推しはかりに、「いみじうなむ才がある」と殿上人などに言ひ散らして、「日本紀の御局」とぞつけたりける、いとをかしくぞ侍る。この古里の女の前にてだにつつみ侍るものを、さる所にて才さかし出で侍らむよ。
左衛門の内侍という人がいます。よくわからないけど、なぜか私のことをよく思ってなくて、身に覚えのないモヤモヤする陰口がたくさん聞こえてきました。帝(一条天皇)が源氏物語を女房に朗読させているのをお聞きになりながら、「この作者にあの日本書紀を読み説いていただこうではないか。まことに漢学の素養があるようだ」と冗談でおっしゃったのをふと鵜呑みにして、「素晴らしい才女なんですって」と殿上人などに言い散らかして「日本書紀のおつぼね様」とかいうあだ名をつけるなんて、本当にレベルの低いことでございます。なじみのある女房の前でも表に出さないようにしておりますのに、そんなところで利口ぶるようなことはありませんわ。
- ないし【内侍】:天皇のそばに仕える女官。
- さいものないし【左衛門の内侍】:橘隆子のことか。天皇の内侍と女房、中宮の女房も兼任していたとされる人物。
- あやし【奇し・怪し】:奇妙だ。(理由がはっきりしなくて)疑わしい、不審だ。
- すずろ【漫ろ】:なんとなく⋯である。関係がないさま。根拠がないさま。
- しりうごと【後う言】:陰口。
- うち【内・内裏】:天皇。帝。ここでは一条天皇のこと。
- ざえ【才】:漢学(儒学・漢詩など)の学識。
- のたまふ【宣ふ】:〘「言ふ」の尊敬語〙おっしゃる。
- さかし【賢し】:かしこい。利口ぶっている。
この式部の丞といふ人の
この式部の丞といふ人の、童にて書読み侍りし時、聞き慣らひつつ、かの人は遅う読み取り、忘るるところをも、あやしきまでぞ聡く侍りしかば、書に心入れたる親は「口惜しう、男子にて持たらぬこそ、幸ひなかりけれ」とぞ、常に嘆かれ侍りし。それを「男だに、才がりぬる人は、いかにぞや。華やかならずのみ侍るめるよ」と、やうやう人の言ふも聞きとめて後、「一」といふ文字をだに書きわたし侍らず、いと手づつにあさましく侍り。
うちの弟は式部の丞と申す者で、子供の頃に漢文を読んでいた時、私はいつもそれを聞いていました。弟がゆっくりとしか暗唱できなかったり、忘れてしまったりするところも、私はなぜか理解が早かったので、漢学に熱心な父親は「惜しいなあ、お前が男の子として生まれてこなかったことは実に運がなかった」などと、いつも嘆いておられました。それが「男であっても、学識ぶるような人はいかがなものか。ぱっとしない人ばかりのようですね」と、ぞろぞろと人が言う声を聞きとめてからは、「一」という漢字ですらきちんと書いておりません。まったく的外れで呆れたことでございます。
- しきぶのじょう【式部の丞】:紫式部の弟、藤原惟規。
- ふみ【書】:漢学。漢詩。
- ききならふ【聞き慣らふ】:いつも聞いている。
- さとし【聡し】:理解が早い。
- てづつ【手づつ】:不器用。不調法。
読みし書などいひけむもの
読みし書などいひけむもの、目にもとどめずなりて侍りしに、いよいよかかること聞き侍りしかば、いかに人も伝へ聞きて憎むらむと、恥づかしさに、御屛風の上に書きたることをだに読まぬ顔をし侍りしを、宮の、御前にて文集のところどころ読ませ給ひなどして、さるさまのこと知ろしめさまほしげに思いたりしかば、いと忍びて、人の候はぬもののひまひまに、をととしの夏ごろより楽府といふ書二巻をぞしどけなながら教えたて聞こえさせて侍る、隠し侍り。宮も忍びさせ給ひしかど、殿も内裏も気色を知らせ給ひて、御書どもをめでたう書かせ給ひてぞ、殿は奉らせ給ふ。
前に読んだことのある漢書などというものには目も留めなくなっておりましたのに、さらにこのような陰口を聞いたものですから、うわさを聞いた人たちはどんなに私のことを憎むでしょうか。そうなるときまりが悪いので、御屏風の上に書いてある漢文すら読めないふりをしておりましたところ、中宮様が御前で『白氏文集』のところどころを私に読ませなさるので、漢詩についていろいろとお知りになりたいご様子だと思いました。そこでこっそりこっそり、他の女房たちがお仕えしていないすきに、一昨年の夏頃から『楽府』という2巻の漢書を大まかに易しく教えさせていただいておりますが、私はそのことを隠しております。中宮様も秘密にされておられましたが、藤原道長様も天皇もその様子をお知りになって、道長様は漢書を書道家に美しく書かせて、中宮様に献上されました。
- いよいよ【愈】:ますます。いっそう。さらに。
- はづかし【恥づかし】:気が引ける。きまりが悪い。
- もんじふ【文集】:漢詩文集。とくに、『白氏文集』(白居易の漢詩文集)。平安貴族の必須の教養の一つ。
- しのぶ【忍ぶ】:こっそり何かをする。
- ひまひま【隙隙】:あいだあいだ。
- がふ【楽府】:『白氏文集』の第3巻と第4巻に収められている諷諭詩集(政治や社会を風刺した詩)、「新楽府」を指す。
- しどけなし:ゆったりしている。しまりがない。乱雑である。
- きこえさす【聞こえさす】:〘「言ふ」の謙譲語〙申し上げる。
まことにかう読ませ給ひなどすること
まことにかう読ませ給ひなどすること、はたかのもの言ひの内侍は、え聞かざるべし。知りたらば、いかにそしり侍らむものと、すべて世の中、ことわざしげく憂きものに侍りけり。
本当に中宮様がこのように読ませなさっていることなど、きっとあの口軽な内侍は聞いていないのでしょう。もし知ったならば、どれだけおディスりなさるだろうかと、まったく世の中のできごとは煩わしくて憂鬱なものでございます。
- はた【将】:きっと。
- ものいひ【物言ひ】:口の達者な人。
- そしる【謗る・誹る・譏る】:悪く言う。非難する。
- ことわざ【事業】:できごと。
- しげし【繁し】:ものごとがたび重なってうるさい。煩わしい。