藤原広嗣の乱|若きエリートはなぜ大宰府で兵を挙げたのか?

 天平12(740)年の夏、大宰府に左遷されたことに不満を抱いていた若者が、朝廷に向けて兵を挙げました。若者の名は藤原広嗣。藤原氏の始祖である中臣鎌足のひ孫であり、祖父は大政治家として名を残した藤原不比等。父の宇合もまた政権の中心で活躍していた人物で、その長男として生まれた広嗣は将来を期待されるエリートでした。

 そんな若者がなぜ、朝廷に対して反乱を起こすに至ったのでしょうか。奈良時代最大の内乱ともいわれる藤原広嗣の乱について、概要を簡単にわかりやすく紹介。広嗣が大宰府に左遷されて乱を起こした理由、乱の経緯とその後について詳しく考察していきます。

藤原広嗣の乱とは?

板櫃川古戦場 / 2024年8月2日訪問

 まずは簡単に、藤原広嗣の乱の概要を説明します。

 藤原広嗣の乱は、天平12(740)年に起きた藤原広嗣による朝廷への反乱です。きっかけは天然痘の流行。天平9(737)年に発生したパンデミックにより、当時政権を握っていた藤原四兄弟が相次いで死去。藤原四兄弟とは藤原不比等の息子たちのことで、広嗣の父宇合もその一人でした。

 その後の政権を担ったのは、藤原一族ではなく橘諸兄でした。藤原四兄弟にはそれぞれ子供がいましたが、広嗣も含めて政権の中心に立つにはまだ若過ぎたのです。諸兄は吉備真備と玄昉を側近に迎え、ここぞとばかりに藤原氏を排除。天平10(738)年12月4日には広嗣を大宰府へと左遷します。

 広嗣はモヤモヤを抱えながらも、大宰府で真面目に仕事をしていました。しかし天平12(740)年8月某日、日本から新羅に派遣されていた遣新羅使が、追い返されるように帰国するという事件が起こります。「日本がナメられている」と感じた広嗣は、橘政権に対する不満が爆発。8月29日に朝廷へ上奏文を送りつけ、大宰府で兵を挙げます。

 上奏文の内容は、天皇をも批判する過激なものでした。時の天皇、聖武天皇は大激怒。百戦錬磨の軍人、大野東人を大将軍に任命し、1万7000人もの大軍を派遣します。政府軍の動きは広嗣の予想よりも早く、9月17日頃には長門国(現山口県)へ到達。9月24日には関門海峡を渡って広嗣軍の重要拠点を征圧します。両軍は10月9日に板櫃川(現北九州市)で戦い、政府軍が圧勝。広嗣は逃亡しますが、10月23日に捕らえられ、11月1日に処刑されました。

藤原広嗣は大宰府へ「左遷」された?

大宰府政庁跡 / 2024年7月30日訪問

将来を期待されていた広嗣

 藤原広嗣が歴史書に初めて登場するのは、『続日本紀』の天平9(737)年9月28日の記事です。広嗣が従六位上から従五位下に叙されたと記されています。式部省という役人の人事をつかさどる機関で、式部少輔という官職に就いていました。当時は藤原四兄弟が亡くなった直後で、人事の立て直しが急務。式部省の仕事が超重要任務であったことは間違いありません。

 翌年の天平10(738)年4月22日には、式部少輔との兼任で大養徳守に任命されます。大養徳国は現在の奈良県を領域とする国で、当時の首都であった平城京も大養徳国の一部。大・上・中・下に分かれていた国の等級の中で、一番上の「大」に分類されている国です。大養徳守の相当位は従五位上と、広嗣の位階よりも上。しかも、聖武天皇が天然痘パンデミックを鎮めようと、天平9(737)年12月27日に「大倭」から「大養徳」に改められたばかりでした。大養徳国と改定されて以後、最初の守に大抜擢されたのですから、広嗣は大いに期待されていたことでしょう。

親族を誹謗した罪で大宰府へ

 大養徳守と式部少輔を兼任し、順調にキャリアを重ねていた広嗣でしたが、栄光の時はたったの7ヶ月で終わりを告げます。天平10(738)年12月4日、大宰少弐に任命されてしまうのです。相当位は従五位下。従五位上の大養徳守より下です。とはいえ大宰府は唐や新羅などとの外交窓口であり、父の宇合も長官である太宰帥を務めた重要な役所。しかも広嗣が任命された時は太宰帥が欠員で、大宰大弐に任命された高橋安麻呂が赴任を拒否したという説もあります。広嗣は実質的に大宰府のトップ、あるいはNo.2となるわけで、決して悪い人事だったとも思えません。

 しかし、大宰府へはやはり左遷でした。『続日本紀』の天平12(740)年9月29日の記事に、このような記述があります。 

 逆人広嗣は小来凶悪にして、長じて詐姧を益す。その父故式部卿常に除き棄てむと欲すれども、朕許すことを能わず、掩い蔵して今に至れり。比、京中に在りて親族を讒じ乱す。故に遠きに遷さしめて、その心を改むることを冀う

 これは藤原広嗣の乱が起きた時に、政府が諸国にばらまいた広嗣を非難する勅です。「遠きに遷さしめて」とはっきり書かれています。「親族を讒じ乱す」とは、「親族の悪口を言って和を乱した」という意味。それ故に遠く(大宰府)へ遷して改心することを願った、ということです。

 ちなみに「小来凶悪(子供の頃から凶悪)」、「長じて詐姧を益す(成長するにつれて人を騙したり悪行を働いたりすることがますます増えた)」と散々な言われようですが、あくまでも反逆者広嗣を悪人に仕立て上げるために書かれた文言です。広嗣は将来を期待されるような人物だったのですから、性格はむしろ良かったのではないかと思います。

藤原広嗣が乱を起こした理由

荒生田神社 / 2024年8月2日訪問

 広嗣が大宰府に着任したのは任命された約2ヶ月後、天平11(739)年の2月頃と思われます。そこから乱を起こすまでの期間は約1年半。乱ではあっけなく敗戦しているため、着々とクーデターの準備を重ねていたわけではなさそうです。結果を出せばまた都に戻れるかもしれないという希望と、グズグズしていては藤原氏の復権が難しくなるという焦りが交錯しながら、真面目に仕事をこなしていたと思われます。

加速する藤原一族の排除

 天然痘によって藤原四兄弟が亡くなったことは、藤原一族にとっては大変ショックで悲しい出来事でありました。でもその他の氏族、そして国民にとっては愉快な出来事だったのではないでしょうか。もし総理大臣や官房長官がみんな兄弟だったら、「この国終わってるな」って思いますよね。それが一気に全員死んだのですから、「ざまあ」と感じるのも無理ありません。その後の政権を担った橘諸兄も、「今こそ藤原氏を排除するチャンス」と思ったことでしょう。吉備真備と玄昉を政権の中枢に引き入れ、広嗣を大宰府へ飛ばしました。

 広嗣が大宰府に着任した直後、天平11(739)年3月に朝廷高官による姦通騒動が世間を賑わせました。当事者は石上乙麻呂と久米若売。乙麻呂は広嗣の母国盛の兄弟で、若売は父宇合の妻の一人です。乙麻呂は土佐国、若売は下総国への流罪に処せられました。律の規定で姦通による流罪の期間は1年とされていましたが、若売は規定通り1年で許された一方で、乙麻呂は1年経っても許されず、復帰したのは広嗣が乱を起こした後。このことから藤原一族に近い乙麻呂を排除するため、橘政権がでっち上げた冤罪だったのではないかといわれています。

 ちなみに石上乙麻呂はイケメンだったそうで、漢詩や和歌を好む芸術家タイプ。非常にモテそうな人物像ですね。夫に先立たれて未亡人となっていた若売は、乙麻呂に口説かれてしまったのかもしれません。だとすると姦通は冤罪ではなく、橘諸兄にとっては「敵が勝手に炎上して消えてくれた」というラッキーな出来事。広嗣は藤原一族排除の流れに焦りを感じつつ、「バカなことしやがって」と一族のダメっぷりに失望したことでしょう。「藤原氏を復権できるのはオレしかいない」と、頭を抱えていたのではないでしょうか。

新羅に対する弱腰外交への不満

 新羅は長らく日本に朝貢する属国でしたが、国力が高まり、脅威であった唐との関係が良くなったことで、日本との対等な関係を求めてきました。しかし日本はこれを拒否。天平7(735)年に来日した新羅使が「国号を『王城国』に改称した」と告げると、「属国のくせに日本の許可なく国号を変えるとはけしからん」と、新羅使を追い返します。当時は藤原四兄弟が政権を握っていた時代で、新羅に軍事的な圧力をかける強気の外交戦略を取っていました。

 しかし天然痘の流行により日本の国力は低下。橘諸兄政権は疫病被害からの復興を優先するため、新羅への軍事力を縮小させる外交方針に転換しました。そんな折に発生したのが、日本から新羅への遣新羅使が追い返されて帰国するという事件。属国だと下に見ていた新羅に、手のひらを返されてしまったのです。広嗣が兵を挙げる直前、天平12(740)年8月某日のことでした。

 広嗣は大宰府での仕事をこなしていくうちに、国際情勢にすこぶる敏感になっていました。追い返された遣新羅使にも会い、さまざまな情報を聞いたことでしょう。藤原四兄弟と同じく新羅に対して強硬論者であった広嗣は、橘政権の弱腰外交を批判。国家の行く末を案じ、「強い日本を造れるのは藤原一族だけだ」とクーデターを決意しました。

大宰府に十分な軍事力があった

 広嗣には勝算がありました。日本は天智天皇2(663)年に起きた白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れて以来、大宰府の防御力を高め、大量の武器を備蓄していました。兵士も多数常駐しており、九州北部だけで常時1万7100名もの兵がいたと考えられています。もちろん朝廷から派遣された兵士ですので、広嗣の味方をしてくれるかどうかはわかりません。しかし人はいつも、都合の良いことばかりを考えてしまうものです。「みんな中央に不満あるだろ」と、広嗣は勝手に決めつけます。

 さらに、九州南部には「隼人」と呼ばれる人々がいました。しばしば朝廷に反乱を起こしていた部族で、養老4(720)年に起こした反乱では1年半も抵抗。大伴旅人を大将軍とする政府軍に鎮圧されましたが、その強さを深く印象付けました。広嗣は「隼人もきっと味方だよね」と勝手に期待。しかしこの期待は後に、広嗣の敗戦を決定づける失望へと変わってしまいます。

 広嗣は勝てる気しかしませんでした。軍縮を進めている今は朝廷の初動も遅いはずと予測。天平12(740)年8月29日、広嗣は朝廷へ上奏文を送り、大宰府で兵を挙げました。

藤原広嗣が送った上奏文の内容

平城京 大極殿

 大宰少弐従五位下藤原朝臣広嗣上表。指時政之得失、陣天地之災異。因以除僧正玄昉法師、右衛士督従五位上下道朝臣真備為言。

 こちらは『続日本紀』の8月29日の記事ですが、原文でもなんとなくわかりますかね? 大宰少弐、従五位下の藤原広嗣が上表。時の政治の得失を指し示し、天地の災異を陳べて、玄昉と下道真備を除くことを求めた、ということです。天地の災異を陳べたとは、異常な自然現象は君主の失政に対する警告だとする「災異思想」に基づきます。要するに、橘政権と聖武天皇を痛烈に批判しているのです。広嗣の要求は玄昉と下道真備を除くことでしたが、朝廷にそれを期待していたわけではないでしょう。広嗣は上奏文を提出すると同時に、大宰府で挙兵したものと思われます。

 広嗣が提出した上奏文の全文は、『松浦廟宮先祖次第幷本縁起』という書に収録されています。その真偽については長らく偽作とされていましたが、金星の運行に関する記述が実際に当時起こった天体現象を表していることが判明。100%本当とはいえないものの、大体の内容は信用できるという見方が今の主流です。

 上表文は5段落あり、第1段は近年の天変地異をあげて、聖武天皇を批判する内容です。当時は天然痘パンデミックだけでなく、大地震や飢饉も起きていました。それらの災異は天皇の不徳によるものだというのですから、聖武天皇が激怒するのも無理ありません。第2段では玄昉について、金と酒と女に目がくらんだクソ坊主だと誹謗。第3段ではその玄昉が天皇に重用されていることを非難し、第4段では唐・新羅・蝦夷・隼人の危険性を述べて橘政権の軍縮政策に反論します。最後の第5段で玄昉が国家の乗っ取りを企んでいるといい、玄昉とその仲間である下道真備の二人を広嗣自身が討ちたいと要求しました。

 このように要求は玄昉と下道真備を討つことですが、全体的に聖武天皇を批判する内容となっています。広嗣が提出した上奏文は天平12(740)年9月3日に朝廷へ届き、即座に広嗣討伐に向けて動き出しました。

藤原広嗣の乱の経過

板櫃川 / 2024年8月2日訪問

 天平12(740)年8月29日に広嗣が送った上奏文は、5日後の9月3日に朝廷へ届きました。大宰府から平城京までの距離は約650km。1日で約130kmも移動したとは驚きですが、当時はすでに駅制という緊急通信システムがあり、驚異的なスピードで情報が伝達されていたようです。上奏文を読んで広嗣の謀反と判断した聖武天皇は、大野東人を大将軍とし、東海道、東山道、山陰道、山陽道、南海道の諸国に合計1万7000人の兵を集めることを命じます。

 大野東人は東北の地で蝦夷と戦い抜いてきた百戦錬磨の武将。実戦経験豊富で、知略に優れていました。広嗣軍の主力は隼人だろうと読んだ東人は、翌日の9月4日、都に出仕していた隼人24人を征伐軍に引き入れます。その理由は隼人は仲間意識が強く、広嗣軍の隼人に投降を説得できると思ったからです。出征の準備を終えた東人は、9月8日頃に平城京を出発。9月17日頃には長門国(現山口県)に到着していたと思われます。東人から長門国に遣新羅使の船が来泊しているとの報告が、9月21日に都に届いているからです。長門国から平城京までの情報伝達スピードを4日とすると、逆算して9月17日には長門国にいたことになります。広嗣討伐の命を受けてから、軍隊を編制して長門国まで移動するのにかかった時間は約2週間。さすがは百戦錬磨の大将軍。行動が早いです。広嗣にとってもこのスピードは誤算でした。

 長門国で情報を集めた東人は9月21日、精兵40人を関門海峡を渡った豊前国へと派遣。翌22日には隼人24人と兵4千人を送り、広嗣軍の拠点であった登美・板櫃・京都の3つの鎮を征圧します。征伐軍の強さを見せつけられた豊前国の人々は、続々と征伐軍に投降していきました。それもそのはず。国家に多少の不満を抱いていたとしても、革命を起こそうなんて考えるのは一握りでしょう。広嗣がどんなに不満を抱いていたとしても、はっきり言ってただの個人的な恨みに過ぎません。そんなんで戦争に巻き込まれるなんて、ちゃんちゃらおかしいですよね。

 征伐軍は板櫃鎮を前線基地とし、広嗣との決戦に備えました。9月29日には大宰府管内諸国の官人と百姓に向けて、「広嗣に味方するのをやめたら褒美をあげるよ♪」という天皇の勅がばらまかれます。そして10月9日、両軍は板櫃川を挟んで対峙。征伐軍6千に対して、広嗣軍は5千。広嗣は豊後国からの軍と、豊前国田川郡からの軍との計3軍でハサミ討ちする作戦でしたが、残念ながら間に合わなかったようです。板櫃川での戦いが始まると、征伐軍に所属する隼人から広嗣軍の隼人に向けて、投降を呼びかける声が発せられます。東人の読み通り、効果てきめん。広嗣軍に味方していた隼人はたちまち戦意を失ってしまいました。こうしてあっけなく広嗣は敗戦。逃走します。

 広嗣は新羅を目指していました。大宰府で外交の仕事をしているうちに、朝鮮半島につてを作っていたのかもしれません。しかし広嗣が乗った船は風で押し戻され、五島列島の宇久島へ漂着。広嗣はその地でとうとう捕まってしまいました。板櫃川での敗戦から2週間後、10月23日のことでした。11月1日に松浦の地で処刑され、短い生涯を終えた藤原広嗣。正確な享年はわかっていませんが、20代前半から半ばであったと推定されます。

藤原広嗣の乱のその後

玄昉の墓 / 2024年8月2日訪問

 藤原広嗣の乱で処されたのは、死罪26名、没官5名、流罪47名、徒罪32名、杖罪177名の計287名でした。討伐軍は1万7000人、広嗣軍も1万人以上が動員されており、奈良時代最大の反乱として歴史に刻まれることになりました。藤原一族は謝罪のため、かつて不比等に賜った食封5千戸を返上。2千戸は一族に戻されますが、3千戸は諸国の国分寺に施入されました。藤原一族の復権を目指した広嗣でしたが、逆に藤原の名を汚すことになってしまいました。

関東行幸と大宰府の廃止

 大宰府に左遷されていたといえ、藤原家の若きエリートが朝廷に反乱を起こしたことは大きな衝撃を与えました。広嗣が処刑される2日前、10月29日に聖武天皇は関東に向けて出発。それから5年にわたって遷都を繰り返しますが、これは広嗣の乱を恐れたためともいわれてます。天平14(742)年1月には大宰府が廃止。天平17(745)年6月に復活しますが、これほど大規模な反乱を起こせるほどの権力と武力は危険だと、体制を見直していたのでしょう。

玄昉と真備のその後

 広嗣がことごとく誹謗した玄昉は、本当に素行が悪く、あまり好かれてはいなかったようです。天平17(745)年11月に失脚し、大宰府政庁のすぐ隣にある筑紫観世音寺へ左遷されます。そしてその翌年の天平18(746)年6月18日に急死。広嗣の残党によって暗殺されたという説が有力ですが、広嗣の怨霊によるものという噂も広まりました。現在、玄昉のお墓は観世音寺のすぐそばにあります。

 下道真備については、実は広嗣が提出した上奏文にはそれほど悪く書かれていません。むしろ有能な人物であるが、玄昉の仲間だから危険という書かれ方です。玄昉と真備は遣唐使として唐に渡り、17年間も唐で過ごした仲間。向こうで勉強に励む一方、遊びまくったに違いありません。ただ真備は玄昉のようには嫌われてはいなかったようで、聖武天皇の関東行幸に随従し、正五位下に昇進。玄昉が左遷された時も無傷で、玄昉が亡くなった天平18(746)年には吉備朝臣姓を賜り、天平勝宝元(749)年には従四位上に叙されます。しかしその翌年、天平勝宝2(750)年1月に真備が任命されたのは筑前守。彼もまた、九州へと左遷されてしまいました。

藤原広嗣を祀る鏡神社へ

鏡神社 二ノ宮 / 2024年7月21日訪問

 玄昉と真備は、広嗣の霊を鎮めるために派遣されたという説もあります。現在の佐賀県唐津市に鎮座する鏡神社の御由緒によると、天皇の勅命で広嗣の霊を鎮める二ノ宮が建立されたそうです。玄昉が左遷された天平17(745)年に建設が始まり、真備が左遷された天平勝宝2(750)年に広嗣が祀られたとのこと。玄昉と真備の二人が関わっている可能性は十分に考えられます。佐賀県唐津市はかつての松浦の一部であり、広嗣が処刑されたとも伝わる場所です。広嗣に関する伝承も多く、広嗣を祀る社も多いエリア。ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。

 ちなみに鏡神社は『源氏物語』で詠まれる和歌に登場し、紫式部自身が詠んだ歌にも出てきます。実をいうと筆者は紫式部ゆかりの地ということで訪問し、その時に藤原広嗣が祀られていることを知った次第です。一ノ宮に祀られているのは神功皇后。三韓征伐から帰国した神功皇后が陣痛を起こした時、この地の湧き水を飲むことで回復し、無事に宇美での安産につながったことから、子宝安産の神とされています。こちらの記事に鏡神社への行き方や見どころをまとめておりますので、ぜひ行ってみてくださいね♪

参考書籍