また、治承四年水無月のころ
また、治承四年水無月のころ、にはかに都遷り侍りき。いと思ひの外なりし事なり。
おほかた、この京のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるより後、すでに四百余歳を経たり。ことなるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを、世の人やすからず、憂へあへる、実にことわりにもすぎたり。
また、治承4年(1180年)6月のころ、突然遷都が行われました。まったく思いもよらない出来事であった。
おおよそ、この平安京のはじまりについて私が聞いていることは、嵯峨天皇の御代に、この領域が都として落ち着いた後、すでに400年以上が経過している。特別な理由もなく、そう簡単に都が新しくなる事なんてあるはずがないので、この遷都を、世の人々が不安に思い、心配し合うのは、まったくもって当然すぎることであった。
- みやこうつり【都遷り】:遷都。
- さだまる【定まる】:安定する。
- ことなるゆゑ【殊なる故・異なる故】:特別な理由。
- やすからず【安からず】:心が落ち着かない。不安である。
- うれふ【憂ふ・愁ふ】:嘆き訴える。悲しむ。心配する。
- げに【実に】:まったく。そのとおり。ほんとうに。
- ことわりなり【理なり・断りなり】:もっともだ。
されど、とかく言ふかひなくて
されど、とかく言ふかひなくて、帝よりはじめ奉りて、大臣、公卿、みなことごとく移ろひ給ひぬ。世に仕ふるほどの人、誰か一人、ふるさとに残り居らむ。官、位に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりともとく移ろはむとはげみ、時を失ひ、世に余されて、期する所なきものは、憂へながらとまり居り。軒を争ひし人の住まひ、日を経つつ荒れゆく。家はこぼたれて、淀河に浮かび、地は目の前に畠となる。人の心、みな改まりて、ただ馬、鞍をのみ重くす。牛、車を用する人なし。西南海の領所を願ひて、東北の庄園を好まず。
しかしながら、あれこれ言っても仕方がなく、天皇をはじめとして、大臣も、公卿も、みな残らず新都へお移りになられた。朝廷に勤めるほどの人は、誰が一人で旧都に残っていようか。官職や位階の昇進に執着し、主君の恩顧を期待しているような人は、一日でも早く新都へ移ろうと懸命になり、出世の好機をつかめず、朝廷に見放され、将来に何も期待できることがない人は、悲嘆にくれながら旧都にとどまった。豪華さを張り合っていた人の住まいは、日が経つにつれて荒れてゆく。家は解体され、筏に組まれて淀川に浮かび、宅地はあっという間にさら地となる。人の考え方はすっかり変わり、ただ馬や鞍ばかりを重んじる。牛や牛車を使う人はいない。西南海の領地を望み、東北の荘園は望まない。
- とかく:あれやこれやと。
- かひなし【甲斐無し・効無し】:仕方がない。どうしようもない。
- おもひをかく【思ひを懸く】:執着する。
- かげ【陰・蔭】:庇護。おかげ。恩顧。
- とく【疾く】:早く。急いで。早々に。
- あます【余す】:余計者にする。取り残す。
- ごす【期す】:結果を期待する。待ち望む。
- こぼつ【毀つ】:壊す。破壊する。
- さいなんかいのりやうしよ【西南海の領所】:西海道(九州)と南海道(紀伊・淡路・四国)の領地。平氏の勢力下。
- とうぼくのしやうゑん【東北の庄園】:東国(東海道・東山道)と北国(北陸道)の庄園。源氏の勢力下。
その時、おのづから事のたよりありて
その時、おのづから事のたよりありて、津の国の今の京にいたれり。所のありさまを見るに、その地、ほど狭くて、条里を割るにたらず。北は山に沿ひて高く、南は海近くて下れり。波の音、常にかまびすしく、潮風、ことにはげし。内裏は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、なかなか様変はりて、優なるかたも侍り。日々にこぼち、川も狭に運び下す家、いづくにつくれるにかあるらむ。なほ空しき地は多く、つくれる屋は少なし。
その時、たまたま用事ができたついでに、摂津の国の新しい都に行ってみた。その場所のようすを見たところ、土地の面積が狭く、区画を割り当てるには足りない。北側は山沿いで高く、南側は海に近くて下り坂になっている。波の音はいつも騒がしく、潮風はことのほか強い。皇居は山の中にあるので、あの木の丸殿もこんな風情だったのかと、かえって様式が異なり、優れているところもありました。来る日も来る日も解体され、川もいっぱいになるくらいに流送された家は、いったいどこに造ったのだろうか。今もまだ空いている土地が多く、建てた家は少ない。
- おのづから【自ら】:たまたま。偶然。
- ことのたより【事の頼り】:何かの用事のついで。
- つのくに【津の国】:摂津国の古名。現在の大阪府北部と兵庫県東部にあたる地域。
- かまびすし【喧し・囂し】:うるさい。やかましい。
- だいり【内裏】:皇居。
- きのまろどの【木の丸殿】:丸木で造った粗末な御殿。斉明天皇が対新羅戦略のために筑前国朝倉(現在の福岡県朝倉市)に造営した行宮をさす。
- なかなか【中中】:かえって。むしろ。
- いうなり【優なり】:優れている。
- せに【狭に】:狭いほどに、いっぱいになるくらいに。
古京はすでに荒れて、新都はいまだならず
古京はすでに荒れて、新都はいまだならず。ありとしある人は、みな浮雲の思ひをなせり。もとよりこの所に居るものは、地を失ひて憂ふ。今移れる人は、土木のわづらひある事を歎く。道のほとりを見れば、車に乗るべきは馬に乗り、衣冠、布衣なるべきは多く直垂を着たり。都の手振り、たちまちに改まりて、ただひなびたる武士にことならず。
旧都はすでに荒れ果て、新都はいまだに完成していない。ありとあらゆる人が、みな不安な思いをいだいている。もともとこの土地に住んでいる者は、土地を取られて嘆いている。新しく移り住む人は、土木工事の手間がかかることにため息をついている。道端を見ると、牛車に乗るべき人が馬に乗り、衣冠や布衣を着るべき人の多くが直垂を着ている。都の風俗は一瞬にして変わってしまい、ただもう田舎くさい武士と違わない。
- ありとしある【有りとし有る】:あるかぎりすべての。
- ふうん【浮雲】:落ち着かず不安なさま。
- うれふ【憂ふ】:嘆く。嘆き訴える。悲しむ。
- わづらひ【煩ひ】:苦労。面倒。
- なげく【歎く】:ため息をつく。
- いくわん【衣冠】:衣服と冠。公卿の略式の礼装。
- ほい【布衣】:布製の狩衣。貴族の普段着。
- ひたたれ【直垂】:武士の礼服。
- てぶり【手振り】:風俗。風習。ならわし。
- ひなぶ【鄙ぶ】:田舎じみる。田舎風になる。
世の乱るる瑞相とか聞けるもしるく
世の乱るる瑞相とか聞けるもしるく、日を経つつ世の中浮き立ちて、人の心もをさまらず。民の憂へ、つひに空しからざりければ、同じき年の冬、なほこの京に帰り給ひにき。されど、こぼちわたせりし家どもは、いかになりにけるにか、ことごとくもとのやうにしもつくらず。
世の中が乱れる前兆だとか聞いていたとおり、日を追うごとに世の中が騒々しくなり、人の気持ちも落ち着かない。民衆の訴えは最後まで無意味ではなかったので、同じ年の冬、やはり天皇は平安京へお帰りになった。しかしながら、軒並み解体してしまった家々は、いったいどうなってしまうのだろうか。すべての家をもと通りに建て直すことは決してできない。
- ずいさう【瑞相】:めでたいきざし。吉兆。前ぶれ。予兆。
- しるし【著し】:はっきりしている。予想通りだ。ぴったり符合する。
- ゆるす【許す・赦す・緩す】:(義務を)免除する。
- なずらふ【準ふ・准ふ・擬ふ】:準ずる。比べる。
伝へ聞く、いにしへの賢き御世には
伝へ聞く、いにしへの賢き御世には、あはれみをもつて国を治め給ふ。すなわち、殿に茅葺きても、軒をだにととのへず。煙の乏しきを見給ふ時は、限りある貢物をさへゆるされき。これ、民を恵み、世を助け給ふによりてなり。今の世のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。
言い伝えによれば、いにしえの聖天子の御代では、民をいつくしむ心をもって国を治められたという。すなわち、宮殿に茅の屋根をふいても、その屋根の先端すらそろえることはなく、かまどの煙が乏しいのをご覧になった時は、義務である租税さえも免除された。これは、民に恩恵を与えることで、世を救済しようとなさったからである。今の世のありさまはどうか、昔の世と比べれば見えてくるだろう。
- つたへ【伝へ】:言い伝え。伝説。
- かぎり【限り】:決まり。規則。おきて。
- みつきもの【貢物】:租税。
- ゆるす【許す・赦す・緩す】:(義務を)免除する。
- なずらふ【準ふ・准ふ・擬ふ】:準ずる。比べる。