すべて、世の中のありにくく
すべて、世の中のありにくく、わが身と栖とのはかなくあだなるさま、またかくのごとし。いはむや、所により、身のほどにしたがひつつ、心を悩ます事は、あげて計ふべからず。
総じて、世の中が生きづらく、我が身と住まいとがはかなく仮初めなさまは、重ねて述べてきたとおりである。ましてや、場所によって、境遇を受け入れ続けて、心を悩ませたことは、一つひとつ数えられないほど多い。
- ありにくし【在りにくし】:生きづらい。生きていくのが難しい。
- あだ【徒】:実質がないさま。かりそめなさま。
- みのほど【身の程】:境遇。
- あげて【挙げて】:いちいち。残らず。すべて。
もし、おのれが身、数ならずして
もし、おのれが身、数ならずして、権門のかたはらに居るものは、深くよろこぶ事あれども、大きに楽しむにあたはず。歎き切なる時も、声をあげて泣く事なし。進退やすからず、立ち居につけて恐れをののくさま、たとへば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。
もし、その人自身が、取るに足りない身分で、権力者の隣に住んでいる者は、深く喜ぶことがあっても、大いに楽しむことはできない。悲しみが痛切な時も、声を上げて泣くことはない。何をするにも心が落ち着かず、普段のちょっとした行動でも隣人を恐れてびくびくする様子は、例えて言うならば、雀が鷹の巣に近づいているようなものだ。
- かずならず【数ならず】:取るに足りない。
- けんもん【権門】:官位が高く権勢のある家。
- あたふ【能ふ】:できる。
- せち【切】:痛切である。深く心に感じる。ひたすらである。
- しんだい【進退】:立ち居振る舞い。一挙一動。
- たちゐ【立ち居】:日常のちょっとした動作。
- をののく【戦く】:ふるえる。びくびくする。
もし、貧しくして、富める家の隣に居るものは
もし、貧しくして、富める家の隣に居るものは、朝夕すぼき姿を恥ぢて、へつらひつつ出で入る。妻子、僮僕のうらやめるさまを見るにも、福家の人のないがしろなる気色を聞くにも、心念々に動きて、時としてやすからず。もし、狭き地に居れば、近く炎上ある時、その災をのがるる事なし。もし、辺地にあれば、往反わづらひ多く、盜賊の難はなはだし。
もし、貧しい身分で、裕福な家の隣に住んでいる者は、一日中、自分のみすぼらしい姿を恥ずかしく思い、隣人に媚びへつらいながら家の出入りをする。自分の妻子や召使いが隣人をうらやましがっている様子を見るにつけても、裕福な家の人が自分たちを軽蔑するような態度を感じとるにつけても、心はそのたびごとに揺れ動き、いかなる時も安まらない。もし、都の中の家々が建ち並ぶ狭い場所に住んでいたら、近くで火事が起きた時、その災害から逃れることはできない。もし、都から遠く離れた場所に住んでいたら、都との行き来に苦労が多く、盗賊におそわれる災難も多い。
- すぼし【窄し】:みすぼらしく肩身が狭い。
- へつらふ【諂ふ】:相手に気に入られるように振る舞う。
- とうぼく【童僕】:召使い。
- ないがしろ【蔑】:あなどり軽んずるさま。無視するさま。
- けしき【気色】:態度。そぶり。表情。顔色。
- きく【聞く・聴く】:音を耳で感じとる。
- ねんねん【念念】:一瞬一瞬。刻一刻。
- ときとして【時として】:少しの間も⋯ない。いかなる時も⋯ない。
- へんぢ【辺地】:都から遠く離れた土地。田舎。都の郊外。
- わうばん【往反】:行き帰り。往復すること。
- わづらひ【煩ひ】:苦労。めんどう。心を悩ませること。
また、いきほひあるものは貪欲深く
また、いきほひあるものは貪欲深く、独身なるものは人に軽めらる。財あれば恐れ多く、貧しければ恨み切なり。人を頼めば、身、他の有なり。人をはぐくめば、心、恩愛につかはる。世にしたがへば、身、苦し。したがはねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。
また、権力や財力がある者は非常に欲が深く、身よりのない者は人から下に見られる。財産があれば心配が多く、貧しければ恨みが痛切だ。人を頼りにすると、自分の身はその人の所有物となる。人を世話すると、自分の心はその人に対する愛情に左右される。世に従えば、自分の身が苦しい。従わなければ、狂人のように見える。どの場所に住んで、どんなことをしたら、しばらくの間だけでもこの身をゆだね、ほんの少しの間だけでも心を休ませることができるのだろうか。
- いきほひ【勢ひ】:権力。財力。
- とんよく【貪欲】:〘仏教語〙「十悪」の一つ。たいへんに欲が深いこと。
- とくしん【独身】:身よりのない人。
- かろむ【軽む】:軽く見る。あなどる。
- はぐくむ【育む】:世話をする。養い育てる。
- おんあい【恩愛】:〘仏教語〙親子・夫婦・兄弟などのあいだの深い愛情。情愛。
- しむ【占む・標む】:住む。
- たまゆら【玉響】:ほんのわずかの間。ちょっとの間。