もし、念仏もの憂く、読経まめならぬ時は
もし、念仏もの憂く、読経まめならぬ時は、みづから休み、みづから怠る。さまたぐる人もなく、また、恥づべき人もなし。ことさらに無言をせざれども、独り居れば、口業を修めつべし。必ず禁戒を守るとしもなくとも、境界なければ何につけてか破らん。
もし、念仏をするのがおっくうで、読経にも気が進まない時は、気ままに休み、気ままにサボる。それを邪魔する人もいなければ、恥ずかしいと思う相手もいない。わざわざ無言の修行をしなくても、一人で居るから口業を犯さないで済む。必ず禁戒を守ろうとしなくても、心を惑わすような環境がないのだから、何によって禁戒を破れようか。
- ものうし【物憂し】:なんとなく心が重い。おっくうだ。
- どきやう【読経】:声をあげて経文を読むこと。
- ことさら【殊更】:故意に。わざわざ。
- むごん【無言】:〘仏教語〙無言の行。一定の期間、無言で過ごす修行のこと。
- くごふ【口業】:〘仏教語〙善悪の報いのもととなる3つの行為(意業・身業・口業)の一つで、言語行為に関すること。
- をさむ【治む・修む】:行いや態度をよくする。
- きやうがい【境界】:〘仏教語〙因果応報によって、各自に与えられた境遇。身の上。
もし、あとの白波に、この身を寄する朝には
もし、あとの白波に、この身を寄する朝には、岡の屋にゆき交ふ船をながめて、満沙弥が風情をぬすみ、もし、桂の風、葉を鳴らす夕には、潯陽の江を思ひやりて、源都督の行ひをならふ。もし、余興あれば、しばしば松の響に秋風楽をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる。芸はこれつたなけれども、人の耳をよろこばしめむとにはあらず。ひとり調べ、ひとり詠じて、みづから情を養ふばかりなり。
もし、あとの白波に、この身を寄する朝には、岡の屋にゆき交ふ船をながめて、満沙弥が風情をぬすみ、もし、桂の風、葉を鳴らす夕には、潯陽の江を思ひやりて、源都督の行ひをならふ。もし、余興あれば、しばしば松の響に秋風楽をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる。芸はこれつたなけれども、人の耳をよろこばしめむとにはあらず。ひとり調べ、ひとり詠じて、みづから情を養ふばかりなり。
- よす【寄す】:まかせる。ゆだねる。心を傾ける。向ける。
- をかのや【岡の屋】:現在の京都府宇治市に当時あった巨椋池の池畔。港としてさかえた。
- まんしやみ【満沙弥】:7、8世紀の歌人。沙弥満誓。
- ふぜい【風情】:風流や風雅の趣。情趣。
- ぬすむ【盗む】:ひそかにまねて学ぶ。
- じんやうのえ【潯陽の江】:中国江西省北部の九江付近を流れる長江の称。
- げんととく【源都督】:源経信。平安時代の歌人、音楽家。琵琶の名手。
- ならふ【倣ふ】:模倣する。見習う。まねる。
- よきよう【余興】:興趣が残っていること。興趣がつきないこと。
- しばしば【屢・屢屢】:たびたび。何度も。
- しうふうらく【秋風楽】:雅楽の曲名。
- たぐふ【類ふ・比ふ・副ふ】:適合する。似せる。なぞらえる。
- りうせん【流泉】:琵琶の曲名。「啄木(たくぼく)」、「楊真操(やうしんさう)」とともに三秘曲の一つ。
- あやつる【操る】:演奏する。奏でる。
- つたなし【拙し】:技芸が劣っている。じぇただ。未熟だ。
- しらぶ【調ぶ】:楽器を演奏する。
- えいず【詠ず】:声に出して詩歌をうたう。
- こころをやしなふ【心を養ふ】:心を慰める。気晴らしをする。
また、ふもとに一つの柴の庵あり
また、ふもとに一つの柴の庵あり。すなはち、この山守が居る所なり。かしこに小童あり。時々来たりて、あひとぶらふ。もし、つれづれなる時は、これを友として遊行す。かれは十歳、これは六十。その齢、ことの外なれど、心を慰むる事、これ同じ。或は茅花を抜き、岩梨を取り、零余子を盛り、芹を摘む。或はすそわの田居にいたりて、落穂を拾ひて、穂組を作る。
また、日野山の麓に一軒の柴で屋根をふいた小屋がある。それは、この山の番人が住んでいる所である。そこに小さい子供がいて、時々やって来て、お互いに見舞う。もし、退屈な時は、この子供を友としてぶらぶら歩く。彼は10歳、私は60歳。その年齢はかなり離れているけれど、心を楽しませることは同じである。ある日は茅花を抜き、岩梨を取り、零余子を盛り、芹を摘む。ある日は山裾の田んぼに行き、落穂を拾って穂組みを作る。
- やまもり【山守】:山の番人。
- かしこ【彼処】:あそこ。あちら。
- こわらは【小童】:幼い子供。
- あひ【相】:互いに。
- とぶらふ【訪ふ】:訪問する。訪ねる。見舞う。
- つれづれ【徒然】:何もすることがないこと。退屈なこと。
- ゆぎやう【遊行】:ぶらぶら歩くこと。散歩。
- ことのほか【殊の外】:とりわけ。
- なぐさむ【慰む】:気分が晴れる。楽しませる。
- つばな【茅花】:ちがやの花。食用になる。
- いはなし【岩梨】:ツツジ科イワナシ属の常緑小低木。梨のような甘味のある実がなる。
- ぬかご【零余子】:山芋などの葉のつけ根に生じる小芋のような小さなかたまり。むかご。
- せり【芹】:せり。春の七草の一つ。
- すそわ【裾回・裾廻】:山のふもと。山すそのまわり。
- たゐ【田居】:田。田んぼ。
- ほぐみ【穂組み】:刈り取った稲の穂を乾燥させるために組み重ねたもの。
もし、うららかなれば
もし、うららかなれば、峰によぢのぼりて、はるかに故郷の空を望み、木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見る。勝地は主なければ、心を慰むるにさはりなし。歩み、わづらひなく、心、遠くいたる時は、これより峰つづき、炭山を越え、笠取を過ぎて、或は石間に詣で、或は石山を拝む。もしはまた、粟津の原をわけつつ、蝉歌の翁があとをとぶらひ、田上河をわたりて、猿丸大夫が墓をたづぬ。帰るさには、折につけつつ、桜を狩り、紅葉を求め、蕨を折り、木の実を拾ひて、かつは仏に奉り、かつは家づととす。
もし、天気が良ければ山の山頂までよじ登り、はるか遠く故郷の空を眺め、木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見渡す。こんなに景色の素晴らしい土地でも持ち主はいないので、誰にも邪魔されずに楽しむことができる。歩くのがめんどうでなく、遠くまで行きたいと思う時は、ここから峰つづきに炭山を越え、笠取を通って、岩間寺に詣でたり、石山寺を拝んだりする。もしくはまた、粟津の原を分け入って蝉歌の翁の旧跡を訪れたり、田上川を渡って猿丸太夫の墓に参ったりする。帰り道では、季節に応じて桜を楽しみ、紅葉を探し、蕨を取り、木の実を拾い、一部は仏にお供えし、一部は我が家へのお土産とする。
- うららか【麗らか】:日ざしがやわらかで、穏やかに晴れていさま。
- こはたやま【木幡山】:現在の京都府宇治市の北部にある丘陵。
- ふしみ【伏見】:現在の京都府伏見区の一帯。
- とば【鳥羽】:現在の京都市南区と伏見区にかかる一帯。
- はつかし【羽束師】:現在の京都市伏見区にある地名。
- しようち【勝地】:景色の素晴らしい地。
- さはり【障り】:障害。さしつかえ。
- あゆみ【歩み】:歩くこと。歩行。
- わづらひ【煩ひ】:苦労。めんどう。
- すみやま【炭山】:現在の京都府宇治市、日野の奥にある山。
- かさとり【笠取】:現在の京都府宇治市、北東部にある山。
- いはま【石間】:現在の滋賀県大津市、岩間寺。
- いしやま【石山】:現在の滋賀県大津市、石山寺。
- あはづのはら【粟津の原】:現在の滋賀県大津市、瀬田川河畔にあった松原。木曽義仲最期の地。
- せみうたのおきな【蝉歌の翁】:蝉丸。平安時代初期の歌人。
- たなかみがは【田上河】:瀬田川の支流。
- さるまろまうちぎみ【猿丸太夫】:平安時代初期の歌人。
- かへるさ【帰るさ】:帰るとき。帰りみち。
- をりにつく【折に付く】:時節・場所がらなどに応じる。
- いへづと【家苞】:わが家へのみやげ。
もし、夜、静かなれば
もし、夜、静かなれば、窓の月に故人をしのび、猿の声に袖をうるほす。草むらの蛍は、遠く槙の篝火にまがひ、暁の雨は、おのづから木の葉吹く嵐に似たり。山鳥のほろと鳴くを聞きても、父か母かと疑ひ、峰の鹿の近く馴れたるにつけても、世に遠ざかるほどを知る。或はまた、埋火をかきおこして、老の寝覚の友とす。恐ろしき山ならねば、梟の声をあはれむにつけても、山中の景気、折につけて尽くる事なし。いはむや、深く思ひ、深く知らむ人のためには、これにしも限るべからず。
もし、夜が静かな時は、窓の月を眺めて故人を懐かしく思い、猿の鳴き声を聞いて涙で袖を濡らす。草むらの蛍は遠く槙島の篝火に見間違えるほどで、未明の雨は自然と木の葉を吹き散らす嵐のように聞こえる。山鳥がホロホロと鳴く声を聞くと、我が父か母かと思い、峰の鹿が慣れて近寄ってくるにつけても、いかに世間から遠ざかっているのかわかる。ある時はまた、灰の中に埋めた火をかきおこして、年老いて目覚めがちな夜の友とする。恐ろしい深山ではないので、梟の鳴き声をしみじみ聞くことにつけても、山中の風景は四季折々で飽きることはない。ましてや、情緒をもっと深く感じ、もっと深い感性を持っている人にとっては、これだけに限らないだろう。
- しのぶ【偲ぶ】:思い慕う。懐かしく思う。
- まき【槙】:槙島。現在の京都府宇治市、巨椋池の東岸近くにあった島。
- かがりび【篝火】:鉄かごに松の薪をたいて照明としたもの。
- まがふ【紛ふ】:見えちがえたり、聞きちがえたりするほどよく似ている。見まちがえる。聞きまちがえる。
- あかつき【暁】:夜明け前の、まだ暗い時分。未明。
- おのづから【自ら】:しぜんに。
- ほろほろ:雉や山鳥などの鳴き声を表す語。
- うづみび【埋み火】:灰の中にうずめてある炭火。
- おいのねざめ【老いの寝覚め】:年老いて、夜中や明け方早くに目覚めがちになること。
- あはれむ:しみじみと趣深いものと感じる。
- けいき【景気】:景色。風景。