このページでは紫式部『源氏物語』の第1帖「桐壺」の冒頭、「光源氏誕生」の原文と注釈を掲載しています。現代語訳はできるだけ原文に忠実に訳しておりので、読みにくい部分もあるかと思います。あらすじと読みやすい現代語訳はこちらのページで紹介しておりますので、ぜひ合わせてご覧ください♪
桐壺更衣と帝
いづれの御時にか
いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやんごとなき際にはあらぬが、すぐれてときめきたまふありけり。はじめより「我は」と思ひ上がりたまへる御方々、めざましきものに貶め嫉みたまふ。同じ程、それより下臈の更衣たちはまして安からず。
どの帝の御代でしたか、女御や更衣がたくさんお仕えしている中に、それほど高貴な身分の家柄ではありませんが、帝にとりわけ寵愛されている方がおりました。はじめから「わたしこそが一番」と思い上がっている女御たちは、その方を目障りな女だと見下し、嫉妬しています。その方と同じ程度か、もっと身分の低い更衣たちは、なおさら心穏やかではありません。
- おほんとき【御時】:天皇の治められている時代。御代。
- にょうご【女御】:后の位の一つ。皇后・中宮に次ぎ、更衣の上の地位。
- かうい【更衣】:女御の次の位。
- さぶらふ【候ふ・侍ふ】:お仕えする。
- やむごとなし:家柄や身分が高貴だ。
- きは【際】:身のほど。身分。家柄。
- ときめく【時めく】:時流に乗って栄える。寵愛を受ける。
- おもひあがる【思ひ上がる】:誇りをもつ。自負する。
- めざまし【目覚まし】:不愉快だ。目障りだ。
- おとしむ【貶む】:見下す。さげすむ。軽蔑する。
- そねむ【嫉む・妬む】:うらやましくて憎む。ねたむ。
- げらふ【下臈】:官位などの低い者。下級の者。
- やすからず【安からず】:心中おだやかでない。おもしろくない。
朝夕の宮仕へにつけても
朝夕の宮仕へにつけても人の心をのみ動かし、うらみを負ふ積もりにやありけむ、いとあづしくなりゆき、物心細げに里がちなるを、いよいよ飽かず、あはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。
日常の宮仕えにおいても人の心をかき乱すばかりで、恨みを背負うことが積み重なったせいでしょうか、その方はひどく病気がちになっていき、なんとなく心細そうに実家へ下がることが多くなっていくのを、帝はますます飽き足らず、愛おしい者とお思いになって、人の非難をも気にかけることができず、世間の語り草にもなってしまいそうな御扱いぶりです。
- あさゆふ【朝夕】:朝と夕べ。転じて、日常。
- こころうごく【心動く】:動揺する。思い乱れる。
- あつし【篤し】:病気がちである。
- ものこころぼそし【物心細し】:なんとなく頼りなく不安定なさま。なんとなく心配だ。
- さとがち【里がち】:実家に下がっていることが多いさま。
- あかず【飽かず】:もの足りない。飽きることがない。
- そしり【譏り・誹り・謗り】:悪口。非難。
- はばかる【憚る】:気がねする。遠慮する。気にかけて避ける。
- よのためし【世の例】:世間の語り草。後の世の人たちの話のたね。
上達部、上人などもあいなく
上達部、上人などもあいなく目を側めつつ、「いとまばゆき人の御おぼえなり。唐土にもかかることの起こりにこそ、世も乱れあしかりけれ」とやうやう天の下にもあぢきなう人のもてなやみ種になりて、楊貴妃のためしも引き出でつべくなりゆくに、いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにてまじらひたまふ。
上達部や殿上人なども不当であると横目で見ながら、「まことに目も当てられないほどの御寵愛ぶりである。唐の国でもこうしたことがあったからこそ、世の中が乱れて悪くなったのだ」と、しだいに世間一般にもどうしようもない人々の悩みの種となり、楊貴妃の例も引き合いに出されそうになっていき、たいそう居心地の悪いことが多かったのですが、その人は身に余る帝の御心づかいが比類ないことを頼りにして、宮仕いを続けておりました。
- かんだぢめ【上達部】:摂政・関白・大臣・大納言・参議、その他三位以上の貴族。公卿。
- うへびと【上人】:四位、五位の官人、および六位の蔵人で、清涼殿の殿上の間に昇殿を許された人。殿上人。
- あいなし:筋が通らない。不当である。よくない。おもしろくない。気にくわない。
- めをそばむ【目を側む】:目をそむける。視線をそらす。横目で見る。
- まばゆし【目映し・眩し】:見てはいられないほど程度がはなはだしい。
- やうやう【漸う】:だんだん。しだいに。
- あぢきなし:(道理に合わず)どうしようもない。無益だ。不満だ。
- もてなやみぐさ【もて悩み種】:悩みのたね。取り扱いに困るもの。
- はしたなし【端なし】:きまりが悪い。みっともなくて恥ずかしい。
- かたじけなし【辱し・忝し】:ありがたい。恐れ多い。もったいない。
- こころばへ【心ばへ】:気だて。心づかい。
- たぐひなし【類無し・比無し】:比べるものがない。
- まじらひ【交じらひ】:宮仕え。奉公。
父の大納言は亡くなりて
父の大納言は亡くなりて、母北の方なんいにしへの人の由あるにて、親うち具し、さしあたりて世のおぼえ花やかなる御方々にもいたう劣らず、なにごとの儀式をももてなしたまひけれど、とりたててはかばかしき後見なければ、こととある時はなほ寄り所なく、心細げなり。
父の大納言は亡くなっていて、母の北の方は古くから由緒ある家柄の人でしたので、両親がそろっていて、さしあたって世間の評判も華やかな女御たちにもそれほど見劣りすることなく、どんな儀式もうまく取り繕っておられましたが、これといって太い後ろ盾がないので、格別な祭事が行われる時はやはり頼れるところがなく、心細そうです。
- きたのかた【北の方】:貴人の妻の敬称。
- いにしへのひと【古への人】:古風な人。昔かたぎの人。
- よし【由】:由緒。
- うちぐす【打ち具す】:十分に整っている。備わる。
- さしあたりて【差し当たりて】:今のところ。当面。目下。
- おぼえ【覚え】:評判。
- もてなす【もて成す】:とり行う。うまく処理する。
- はかばかし【果果し・捗捗し】:しっかりしている。頼もしい。
- うしろみ【後見】:後見人。
光源氏誕生
先の世にも御契りや深かりけむ
先の世にも御契りや深かりけむ、世になくきよらなる玉の男御子さへ生まれたまひぬ。いつしかと心もとながらせたまひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、めづらかなる児の御容貌なり。一の御子は右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひなき儲の君と世にもてかしづききこゆれど、この御にほひには並びたまふべくもあらざりければ、大方のやむごとなき御思ひにて、この君をば私物に思ほし、かしづきたまふこと限りなし。
前世でも帝との御縁が深かったのでしょうか、世にまたとないほど清らかな玉の皇子さえお生まれになりました。いつかいつかと心待ちにされていた帝は、急いで宮中に呼び寄せてご覧になると、めったにないほどかわいらしい乳児の御姿であります。第一皇子は高貴な右大臣家の女御がお生みになった子で、後ろ盾が厚く、疑いなく皇太子になられるお方として大切に育てられていると世に知られておりましたが、この輝くように美しい御姿には比べようもありませんでしたので、表向きは相応の御慈愛で、この若君こそをば内々に大切にしたいとお思いになり、愛情を注がれることは限りないほどです。
- ちぎり【契り】:前世からの因縁。宿縁。
- よになし【世に無し】:世にまたとなくすぐれている。立派だ。
- きよら【清ら】:気品があって美しい。清らかで美しい。
- いつしか【何時しか】:早く(⋯したい)。
- こころもとなし【心許なし】:待ち遠しい。
- めづらか【珍か】:ふつうとちがっているようす。めったにないようす。。
- はら【腹】:その女性の腹から生まれたこと。また、生まれた人。
- よせ【寄せ】:後見。後ろだてとなって世話をする人。
- まうけのきみ【儲けの君】:次の天皇として用意されている皇子。皇太子。
- もてかしづく【もて傅く】:大切に育てる。大切に世話をする。
- にほひ【匂ひ】:色つやのある美しさ。はなやかな魅力。
はじめよりおしなべての
はじめよりおしなべての上宮仕へしたまふべき際にはあらざりき。おぼえいとやむごとなく、上衆めかしけれど、わりなくまつはさせたまふあまりに、さるべき御遊びの折々、何ごとにもゆゑあることのふしぶしには、まづ参う上らせたまふ。ある時には大殿籠もり過ぐして、やがてさぶらはせたまひなど、あながちに御前去らずもてなさせたまひしほどに、おのづから軽き方にも見えしを、この御子生まれたまひて後はいと心ことに思ほしおきてたれば、坊にも、ようせずはこの御子の居たまふべきなめりと、一の皇子の女御は思し疑へり。人より先に参りたまひて、やむごとなき御思ひなべてならず、御子たちなどもおはしませば、この御方の諌めをのみぞなほわづらはしう、心苦しう思ひきこえさせたまひける。
その方はもともと、並みの宮仕えをなさるような身分ではありませんでした。評判はとても高く、貴人らしい風格もありましたが、帝が度を越して側に付き添わせるあまり、宮中で催される管絃御遊の折々、どんなことでも風情ある催し事が行われる節々には、真っ先にその方をお呼び寄せなさるのです。ある時には日が高くなるまで一緒に寝て過ごされ、そのまま帝の側にお仕えさせなさるなど、一途に側から離さず御扱いなさっているうちに、自然と軽い身分の方に見えたのを、この若君がお生まれになってからはいっそう格別なお思いで取り扱われているので、東宮にも、悪くするとこの若君がお就きになりはしないかと、第一皇子の女御は思い疑いました。人よりも先に参られて、帝の尊い御思いも並大抵ではなく、御子たちなどもいらっしゃいますので、帝もこの御方の諫言だけはやはり面倒で、心苦しく思い申し上げておられます。
- おしなべて【押し並べて】:ふつうに。ありきたりに。
- うへみやづかへ【上宮仕え】:天皇のそばで日常の用を勤めること。
- じゃうずめかし【上衆めかし】:高貴な人らしいようすである。
- わりなし:道理に合わない。はなはだしい。無理にするさま。
- まつはす【纏はす】:まといつく。まとわりつく。
- あそび【遊び】:宗教的な歌舞。行楽・酒宴・狩猟などの娯楽。管絃・詩歌などの遊び。
- ゆゑ【故】:由緒。趣。風情。趣味のよさ。教養。
- おほとのごもる【大殿籠る】:おやすみになる。寝過ごす。
- あながち【強ち】:むりやりなさま。
- さらず【去らず】:そこを去らないようにして。そばから離れないようにして。
- おのづから【自ら】:しぜんに。たまたま。まれに。
- こころこと【心異・心殊】:格別にすぐれているさま。他と違っているさま。
- おきつ【掟つ】:取り決める。予定する。取り扱う。
- ばう【坊】:東宮坊の略。皇太子。
- ようせずは【能うせずは】:うまくやらないと。悪くすると。ひょっとすると。もしかすると。
- ゐる【居る】:(天皇・皇后・斎宮などの)位に就く。
- なべてならず【並べてならず】:並大抵ではない。格別だ。
- おはしまさす【御座しまさす】:おいでになるようにさせる。いらっしゃるようにさせる。
- いさめ【諌め】:忠告。諫言。
- わづらふ【煩ふ】:思い苦しむ。悩む。煩わしく思う。
- きこえさせたまふ【聞こえさせ給ふ】:申し上げなさる。
かしこき御陰を頼みきこえながら
かしこき御陰を頼みきこえながら、おとしめ疵を求めたまふ人は多く、わが身はか弱くものはかなきありさまにて、なかなかなるもの思ひをぞしたまふ。御局は桐壺なり。あまたの御方々を過ぎさせたまひて、ひまなき御前渡りに、人の御心を尽くしたまふもげにことわりと見えたり。
もったいない帝の御庇護をお頼み申し上げながらも、見下して欠点をあら探しなさる人は多く、自分の体はか弱くてどことなく頼りないありさまで、必要以上にいろいろと思い悩んでおられます。更衣のお部屋は桐壺です。数多くの女御たちをお通り過ぎになり、頻繁にお部屋の前を素通りなさるので、人の帝への御心を悩ませなさるのもいかにも当然なことと見えます。
- かしこし【畏し・恐し】:恐れ多い。尊い。もったいない。
- かげ【陰・蔭】:かばったり守ったりしてくれる人。また、その恩恵。
- おとしむ【貶む】:軽蔑する。さげすむ。
- きずをもとむ【疵を求む】:ことさらに人の欠点や過失をさがし求める。
- ものはかなし【物はかなし】:どことなく頼りない。
- なかなかなり【中中なり】:なまじっかだ。
- ものおもひ【物思ひ】:いろいろ思い悩むこと。
- ひまなし【暇なし】:ひっきりなしである。
- まへわたり【前渡り】:立ち寄らずに通り過ぎること。
- こころつくす【心尽くす】:心をすり減らす。気をもむ。
- げに【実に】:まったく。いかにも。
- ことわりなり【理なり】:当然である。もっともである。
参う上りたまふにも
参う上りたまふにも、あまりうちしきる折々は、打橋、渡殿のここかしこの道にあやしきわざをしつつ、御送り迎への人の衣の裾耐へがたくまさなきこともあり。またある時にはえさらぬ馬道の戸をさしこめ、こなたかなた心を合はせて、はしたなめわづらはせたまふときも多かり。ことにふれて数知らず苦しきことのみまされば、いといたう思ひわびたるを、いとどあはれと御覧じて、後涼殿にもとよりさぶらひたまふ更衣の曹司をほかに移させたまひて、上局にたまはす。そのうらみましてやらん方なし。
帝へ参上されるにも、あまりに頻繁に繰り返される場合には、殿舎へ渡る橋や廊下のあちこちの道にけしからぬことを仕掛けては、御送迎の人の着物の袖が我慢ならないほどみっともない状態になることもあります。またある時には、どうしても避けられない通路の戸を閉じ、こちら側とあちら側とで息を合わせて、恥をかかせてうんざりさせることも多かったのでした。事あるごとに数えきれないほど苦しいことばかりが増すので、たいそう心を痛めて思い悩んでいるのを、帝は「なんとかわいそうに」と御覧になって、後涼殿に以前からお仕えなさっていた更衣の部屋を他に移させて、桐壺更衣にお与えになります。その更衣の恨みはまして晴らすべもありません。
- かしこし【畏し・恐し】:恐れ多い。尊い。もったいない。
- かげ【陰・蔭】:かばったり守ったりしてくれる人。また、その恩恵。
- おとしむ【貶む】:軽蔑する。さげすむ。
- きずをもとむ【疵を求む】:ことさらに人の欠点や過失をさがし求める。
- ものはかなし【物はかなし】:どことなく頼りない。
- なかなかなり【中中なり】:なまじっかだ。
- ものおもひ【物思ひ】:いろいろ思い悩むこと。
- ひまなし【暇なし】:ひっきりなしである。
- まへわたり【前渡り】:立ち寄らずに通り過ぎること。
- こころつくす【心尽くす】:心をすり減らす。気をもむ。
- げに【実に】:まったく。いかにも。
- ことわりなり【理なり】:当然である。もっともである。
- うちしきる【打ち頻る】:同じことがくり返し起こる。たび重なる。
- うちはし【打ち橋】:板を渡して仮に作った板。建物をつなぐ廊下の一部を、取り外しができる板の橋にしたもの。
- わたどの【渡殿】:屋根のある廊下。渡り廊下。
- ここかしこ【此処彼処】:あちらこちら。
- あやし【賤し】:みっともない。いやしい。
- まさなし【正無し】:見苦しい。みっともない。
- さらぬ【避らぬ】:避けることのできない。
- めだう【馬道】:内裏の殿舎の中央を貫通する通路。
- さしこむ【鎖し籠む】:戸や門を固く閉ざす。
- こなたかなた【此方彼方】:こちらとあちら。
- いといたく:とてもひどく。はなはだしく。
- おもひわぶ【思ひ詫ぶ】:(どうしたらよいのかわからなくなって)思い悩む。
- ざうし【曹司】:宮中に儲けられた役人や女官などの部屋。
- うえつぼね【上局】:中宮・女御などが、常の局のほかに、特に天皇の御座所近くに与えられた部屋。
- やらむかたなし【遣らむ方無し】:心を晴らすすべがない。心を慰めようがない。