白居易(白楽天)の代表作、『長恨歌』を全4回に分けて考察していきます。第3回は安史の乱が終息し、都に戻った玄宗皇帝が楊貴妃のことを忘れられず、道士に魂を探しに行かせる場面。『源氏物語』に引用されている表現が多々ありますので、その辺りを補足します。先に『長恨歌』の全文を読みたい方は、以下のページをご覧くださいませ♪
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前回(第2回)のあらすじ
驪宮で緩やかに歌い、ゆったりと舞い、管絃の音を情緒たっぷりに奏でて、一日を尽くしても君王は飽き足らない。そこへ漁陽の攻め太鼓が、大地をとどろかせて来た。一千の馬車と一万の騎兵が西南へ逃げ行く。都の門を西へ出て百里余り、六軍は出発せず、いかんともできない。みやびな眉の美しい人は、馬嵬の地を前に死す。蜀江の水は碧緑に澄み、蜀山は青々と美しい。行宮から月を見れば、傷心の顔色を浮かべ、雨の夜に鈴の音を聞けば、断腸の声を上げる。
天旋地転迴龍馭
原文・語釈・現代語訳
天 旋 地 転 迴 龍 馭
到 此 躊 躇 不 能 去
馬 嵬 坡 下 泥 土 中
不 見 玉 顔 空 死 処
君 臣 相 顧 尽 霑 衣
東 望 都 門 信 馬 帰
天旋り地転じて龍馭を迴らし
此に到りて躊躇して去ること能わず
馬嵬坡の下泥土の中
玉顔を見ず空しく死せる処
君臣相い顧みて尽く衣を霑す
東のかた都門を望みて馬に信せて帰る
- 天旋日転:天地がひっくり返る。反乱の終息を表す。玄宗は退位し、長安に戻るも半ば軟禁状態で余生を過ごした。
- 龍馭:天子の車。
- 馬嵬坡:馬嵬は楊貴妃の死んだ地。坡は坂道。
- 玉顔:楊貴妃の宝石のように美しい顔つき。
- 信馬:放心状態で馬の歩みのままに任せるさま。
天はめぐり、地は転じて、龍の御車を都へと引き返す。この地に至ると歩みを躊躇して、立ち去ることができない。馬嵬の坂道の下、泥土の中、玉顔を見ず、空しく死んだところ。君臣たちも互いに回顧して、ことごとく衣を潤す。東に都の門を望み、馬に身を任せて帰る。
安史の乱の終息
755年に起こった安史の乱は楊貴妃の死後も続き、結果として7年以上にわたる大乱となりました。玄宗皇帝は失脚し、皇太子の李亨が肅宗として即位。安禄山は燕国の建国を宣言し、聖武皇帝を名乗ります。当初は安禄山軍が優勢で長安も制圧しましたが、安禄山は病に倒れ、正気を失ってしまいます。挙兵から約2年後の757年、安禄山は息子の安慶緒に暗殺されました。
その後は唐政府軍の勢いが盛り返し、安慶緒が敗走。安禄山の盟友であった史思明も、唐に降伏を宣言しました。しかしすぐにこれを撤回。史思明は759年に安慶緒を攻め滅ぼし、大燕皇帝を名乗ります。しかし史思明もまた、761年に息子の史朝義に殺害されてしまいました。翌年の762年には、玄宗と肅宗が立て続けに崩御。代宗が即位し、ウイグル軍の協力を得て史朝義を攻撃します。763年に史朝義を自殺に追い込み、ようやく安史の乱が収束したのでした。
帰来池苑皆依旧
原文・語釈・現代語訳
帰 来 池 苑 皆 依 旧
太 液 芙 蓉 未 央 柳
芙 蓉 如 面 柳 如 眉
対 此 如 何 不 涙 垂
春 風 桃 李 花 開 日
秋 雨 梧 桐 叶 落 時
西 宮 南 苑 多 秋 草
落 叶 満 階 紅 不 掃
梨 園 弟 子 白 髪 新
椒 房 阿 監 青 娥 老
帰り来たれば池苑皆な旧に依る
太液の芙蓉未央の柳
芙蓉は面の如く柳は眉の如し
此れに対して如何ぞ涙垂れざらん
春風桃李花開く日
秋雨梧桐葉落つる時
西宮南苑秋草多く
落葉階に満ちて紅を掃わず
梨園の弟子白髪新たに
椒房の阿監青娥老ゆ
- 池苑:池と庭園。
- 依旧:依然として。
- 太液芙蓉:太液は歴代王朝の宮殿内にある池の名前。芙蓉(蓮の花)は美女の容姿を表す。
- 未央柳:未央は宮殿の名前。柳は美女の眉を表す。
- 桃李:桃はモモ、李はスモモ。春に花を咲かせる樹木。
- 梧桐:アオギリ。
- 梨園:宮中の歌舞教練所。
- 弟子:梨園で学んでいた楽人。
- 椒房:未央宮にある皇后の居所。
- 阿監:後宮を監督する女官。
- 青娥:青々と描いた眉。年をとっても若い頃と同じ化粧をするさま。
都に帰り着くと、宮殿の御池も御苑もみな依然として残っている。太液池の芙蓉も、未央宮の柳も。芙蓉は亡き人の顔のごとく、柳は眉のごとし。これに対して、どうして涙が垂れないことがあろうか。春の風に桃李の花が開く日も、秋の雨に梧桐の葉が落ちる時も。西の御殿も南の御苑も秋の草が多く茂り、落ち葉はきざはしに満ちて紅を掃き清めない。梨園の芸妓は白髪が新たに、椒房の女官は青々と描いた眉が老いを引き立たせる。
『源氏物語』にも引用されている「太液芙蓉、未央柳」とは
太液芙蓉とは、中国の歴代王朝の宮殿内にあった太液池に咲く芙蓉の花のことです。上の画像の通り美しい花で、楊貴妃の美貌を喩えています。未央柳は宮殿内の未央宮に植えられていた柳のことで、こちらは楊貴妃の眉を比喩しています。しなやかで上品な感じですね。太液池が未央宮内にあったのは漢代のことで、唐代は大明宮内にありました。『長恨歌』のモデルは唐の玄宗皇帝と楊貴妃ですが、あくまで漢の時代の物語としての体裁を貫いています。
太液芙蓉、未央柳という表現は『源氏物語』にも引用されています。桐壺更衣が亡くなり、悲しみに暮れていた桐壺帝が『長恨歌』の絵をひたすら眺めて嘆く場面があります。「太液芙蓉、未央柳もげに通ひたりしかたちを」と、桐壷更衣の容姿を楊貴妃になぞらえていました。『源氏物語』を読むと「太液芙蓉? 未央柳って何?」となりますが、意味がわかると面白いですよね。
夕殿蛍飛思悄然
原文・語釈・現代語訳
夕 殿 蛍 飛 思 悄 然
孤 灯 挑 尽 未 成 眠
遅 遅 鐘 鼓 初 長 夜
耿 耿 星 河 欲 曙 天
鴛 鴦 瓦 冷 霜 華 重
翡 翠 衾 寒 誰 与 共
悠 悠 生 死 別 経 年
魂 魄 不 曾 来 入 夢
夕殿に蛍飛びて思い悄然たり
孤灯挑げ尽すも未だ眠りを成さず
遅遅たる鐘鼓初めて長き夜
耿耿たる星河曙けんと欲する天
鴛鴦瓦は冷ややかにして霜華は重く
翡翠の衾は寒くして誰とか共にせん
悠悠たる生死別れて年を経たり
魂魄曾て来たりて夢に入らず
- 蛍:ホタル。故人の代わりに現れる。
- 悄然:うち沈む。
- 孤灯:一つだけ灯る明かり。
- 挑尽:灯りが明るくなくなるまでかかげ尽くす。
- 初長夜:秋の夜長の始まり。
- 鴛鴦瓦:仲睦まじい夫婦の象徴であるオシドリを飾った瓦。
- 霜華:花のように結晶した霜。
- 翡翠衾:カワセミの刺繍を施したふとん。
- 不曾:かつて⋯したことがない。
夕暮れの宮殿に蛍が飛び交い、憂いの思いにうち沈んでいる。孤灯の明かりをともし尽くすも、いまだ眠りを成さない。遅々と鳴り響く鐘鼓が告げる、秋の夜長の始まり。白々と消えゆく星の運河に、明けんと欲する天の空。鴛鴦瓦は冷ややかで、霜花は重い。翡翠のしとねは寒くして、誰と共にしようか。悠々たる生死、別れて年を経た。亡き人の魂はいまだかつて来たことがなく、夢に現れてくれない。
「孤灯挑尽未成眠」も『源氏物語』に影響
このシーンも『源氏物語』に大いに影響しています。「灯火をかかげ尽くして起きおはします」と、桐壺帝も灯りが燃え尽きるまで眠ることができませんでした。秋の夜長のもの寂しい雰囲気、澄みわたるきれいな星空も同じ情景です。『長恨歌』では星河(天の川)が描かれていますが、『源氏物語』では秋の月が描かれています。
臨邛道士鴻都客
原文・語釈・現代語訳
臨 邛 道 士 鴻 都 客
能 以 精 誠 致 魂 魄
為 感 君 王 展 転 思
遂 教 方 士 殷 勤 覓
排 空 馭 気 奔 如 電
昇 天 入 地 求 之 遍
上 窮 碧 落 下 黄 泉
両 処 茫 茫 皆 不 見
臨邛の道士鴻都の客
能く精誠を以て魂魄を致す
君王の展転の思いに感ずるが為に
遂に方士をして殷勤に覓めしむ
空を排し気を馭して奔ること電の如し
天に昇り地に入りて之を求むること遍し
上は碧落を窮め下は黄泉
両処茫茫として皆な見えず
- 臨邛:蜀の地名。現在の四川省成都市内に位置する邛崍市。
- 鴻都:後漢の都洛陽にある宮門の名前。
- 展転:眠れずに寝返りをうつこと。
- 殷勤:心をこめて入念にするさま。
- 覓:探し求める。
- 馭:馬を走らせる。
- 奔:速く走る。駆ける。
- 遍:くまなく。
- 碧落:青空。
- 茫茫:広々として果てしがないさま。
臨邛の道士、鴻都の客。精神誠意の力をもってして、死者の魂とつながることができる者である。君王の夜も眠れぬ思いに共感するがために、ついに仙術をして入念に探し求めさせた。空をしりぞけ、大気を駆けて走るさまは稲妻のごとし。天に昇っては地に潜り、くまなくこれを求め、上は碧天の彼方まで達し、下は黄泉の国まで。どちらも果てしなく広がるばかりで何も見えない。
桐壺帝も更衣の魂を求めたが⋯⋯
尋ねゆくまぼろしもがなつてにても魂のありかをそこと知るべく
この歌は『源氏物語』の桐壺帝が詠んだ歌で、「まぼろし」というのは幻術師のことです。『長恨歌』の道士のように、魂のありかを探してくれる幻術師がいたらなあ、と夢でも更衣に会いたいと望みます。『源氏物語』では魂を探しに行くことはなく、帝の焦点も更衣から若君(光源氏)へと移っていきますが、「藤壺」というそっくりさんが登場します。