鴨長明の生没年と死因を考察|1155年ではなく1153年生まれ?

 鴨長明の生没年は、通説では久寿2(1155)年に生まれて、健保4(1216)年閏6月8日に数え62歳で亡くなったとされています。没年については『月講式』という資料からほぼ確定とされていますが、生年はあくまで推定。『方丈記』には「六十の露消えがたに及びて」、「かれは十歳、これは六十」という記述があり、方丈記が成立したとされる建暦2(1212)年に数え60歳であったとすると、長明の生年は1153年ということになります。

「方丈記にそう書いてあるなら1153年生まれでいいのではないか」と思いたいところですが、通説では1155年生まれ。その理由は、1153年生まれだと長明の父親の年齢に不都合が生じるから、というものです。私はその理由にいまいち納得できなかったので、長明の生年について自分が納得いくまで調べてみました。鴨長明が何年に生まれて、何年にどのようにして亡くなったのか、生没年と死因について考察します。

1155年生まれが通説とされている理由

 鴨長明の生年が1155年とされているのは、父長継の年齢に不都合が生じるからです。といっても長継の生没年もはっきりしていないのですが、『山槐記』という中山忠親(平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿)がのこした日記に、永暦元(1160)年に長継が22歳で従四位下に叙されたという記事があります。この記事をもとにすると、1153年時点の長継は15歳。長明には長守という兄もおり、15歳で次男の長明が生まれたのはあまりに若すぎる、ということで長明の生年が1155年とされているのです。

 これに異を唱えているのが歴史学者の五味文彦氏。『鴨長明伝』という著書で、『山槐記』の二十二歳という数字が間違っていたのではないかと疑問を呈しています。『山槐記』は原本の存在が確認されておらず、伝わっているのは後世の書写本。他の記事は二十に「廿」の字が使われているのに、廿二歳ではなく二十二歳となっているのは、三十二歳の写し間違いではないかというのです。

 また、藤原頼長の日記『台記』によると、1155年の時点で長継は既に下鴨神社の禰宜になっていました。1160年に22歳であったとすると、1155年の長継は17歳。禰宜になるにはあまりに若すぎる年齢です。1160年に32歳であったとする方がしっくりきます。

 長明の生年が1155年だとしても17歳で二人の息子がいたことになり、いくら平安時代とはいえ早いと思います。というか、15歳が17歳になったところで、『方丈記』の記述をくつがえすほどの根拠になるのでしょうか。したがって私は五味文彦氏の説を支持し、鴨長明の生年は久寿2(1155)年ではなく、仁平3(1153)年であると結論づけることにしました。

鴨長明が出家したのはいつ?

 しかし1153年生まれであるとすると、今度は出家した年が問題となります。『方丈記』には「五十いそぢの春を迎へて、家をで、世をそむけり」とありますが、1153年生まれであれば50歳の年は1202年。その頃の長明は『新古今和歌集』の編纂の仕事をしており、ばりばり都の社会の中にいました。

『源家長日記』によると、長明は1204年に「かきこもり」ます。かきこもるとは「引きこもる」という意味で、ある事件をきっかけに『新古今和歌集』の仕事を辞めて失踪してしまったのです。『新古今和歌集』の編纂を指揮していた後鳥羽院は、長明の熱心な働きぶりに感心し、下鴨神社の摂社である河合神社の禰宜に推薦しました。長明にとっては願ってもないチャンス。涙を流して喜びました。しかし、下鴨神社の禰宜でった鴨祐兼が猛反対。結局おじゃんとなり、何もかもが嫌になった長明は都を出てしまったのです。

 このことから長明が出家したのは早くても1204年ということになり、1155年生まれだとするとぴったり50歳。1155年生まれが通説とされるもう一つの理由です。ただ、1204年は大原に移り住んだだけで、出家はもっと後ではないかという説もあります。というのも、1205年に開かれた詩歌合に、長明は自身の名前で歌を寄せているのです。そうすると出家したのは1205年以降。1155年生まれでもぴったり50歳というわけではありません。

 いずれにしても「五十いそぢの春を迎へて」というのは、50歳ぴったりでという意味にはならないと思います。1153年に生まれて、1204年に52歳で大原に移り住み、1205~06年頃に出家したという説を私は支持します。

鴨長明はいつどのように亡くなったのか

 鴨長明の没年月日は、健保4(1216)年閏6月8日とされています。長明は亡くなる直前、知り合いの禅寂こと藤原長親に『月講式』の作成を依頼しました。講式とは仏菩薩や高僧の徳をたたえる声明のことで、月講式は十二天のうちの月天をたたえるものです。しかし、長明はその完成を見ることなく入滅。『月講式』は健保4(1216)年7月13日に成立するのですが、そこに「別れを告げて五七日」と記述されていることから、7月13日の五七日(35日)前を逆算して閏6月8日となるのです。

 亡くなった場所や死因についての記録はありません。そのため私の想像ではありますが、やはり方丈の庵で亡くなったのではないでしょうか。『月講式』を依頼していたことから、何らかの病に冒されていたか、老衰が進み死期を悟っていたことでしょう。64歳というのは当時としてはかなり高齢ですので、静かに亡くなったのではないかと思います。また、禅寂という友人がいたことから、孤独死でもなかったでしょう。『月講式』に「別れを告げて」とあることから、最後は誰かに見守られながら亡くなったのではないかと思います。人生ではいろいろと辛いことが多かった長明ですが、最期は幸せだったのではないでしょうか。