平氏滅亡の予兆?方丈記「治承の辻風」の現代語訳と時代背景

 辻風は常に吹くものなれど、かかる事やある。ただ事にあらず。さるべきもののさとしか、などぞうたがはべりし。

 治承4(1180)年4月29日、平安京ですさまじい辻風(竜巻)が発生しました。「辻風は常に吹くものなれど」とあるように、当時の京都ではそれほど珍しくない自然現象であったのかもしれません。しかし、治承の辻風は「ただ事にあらず」であったのこと。「もののさとし(物の諭し)」とは神仏の啓示を意味する言葉で、何か良からぬことが起こる予兆ではないかと長明は疑いました。

 治承の辻風のちょうど3年前には、平安京の3分の1が焼けたとされる「安元の大火」が発生。『方丈記』では触れられていませんが、その翌年にも平安京は再び大火に見舞われています(治承の大火)。その頃から政治情勢も悪化。後白河法皇と平清盛との権力争いが激化し、物騒な事件が立て続けに起こっていました。

「治承の辻風」原文と現代語訳

また、治承四年卯月のころ

原文

 また、治承ぢしやう四年づきのころ、中御門なかのみかど京極きやうごくのほどより、大きなるつじかぜ起こりて、六条わたりまで吹ける事はべりき。

 三四町を吹きまくるあひだにこもれる家ども、大きなるも、小さきも、一つとして破れざるはなし。さながらひらたふれたるもあり、けたはしらばかり残れるもあり。かどを吹きはなちて、四五町がほかに置き、また、かきを吹きはらひて、隣と一つになせり。いはむや、家のうちの資財、数を尽くして空にあり、はだふきいたのたぐひ、冬の木の葉の風にみだるがごとし。ちりけぶりのごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず、おびたたしく鳴りとよむほどに、もの言ふ声も聞こえず。かの地獄のごふの風なりとも、かばかりにこそはとぞおぼゆる。

現代語訳

 また、治承4年(1180年)4月のころ、中御門京極のあたりから、大きなつむじ風が発生し、六条のあたりまで吹いたことがありました。

 3~4町にわたって激しく吹きまくる竜巻の圏内に入った家々は、大きな家も、小さな家も、一軒たりとも破壊されない家はなかった。そのままぺしゃんこに倒壊した家もあれば、桁と柱だけが残った家もあった。門を吹き飛ばして、そのままの形で4~5町も離れた場所へ移動させ、また、垣根を吹き払って、隣の家と一つの敷地に変えてしまった。言うまでもなく、家の中にあった家財は、ことごとく空に巻き上げられ、檜皮や葺板など屋根板のたぐいは、まるで冬の木の葉が風に乱れ舞っているかのようである。塵を煙のように吹き立てるので、まったく目も見えない。凄まじい音が鳴り響くので、物を言う声も聞こえない。あの地獄の業風であっても、これほどではないだろうと思う。


語釈
  • なかのみかどきやうごく【中御門京極】:現在の京都市上京区、寺町通と下切通しが交差する辺り。京都歴史資料館付近。
  • ちゃう【町】:1町は約109メートル。
  • こもる【籠る・隠る】:囲まれている。
  • ひら【平】:ぺしゃんこ。

家の損亡せるのみにあらず

原文

 家のそんまうせるのみにあらず、これを取りつくろふ間に身をそこなひ、かたはづける人、数も知らず。この風、ひつじの方に移りゆきて、多くの人のなげきなせり。

 辻風は常に吹くものなれど、かかる事やある。ただ事にあらず。さるべきもののさとしか、などぞうたがはべりし。

現代語訳

 家が損壊しただけではなく、壊れた家を修繕している間に怪我をして、身体が不自由になってしまった人は数知れない。この風は南南西の方角に移っていき、多くの人の悲嘆を引き起こした。

 つむじ風は常日頃から吹くものではあるが、こんなことがあろうか。ただ事ではない。しかるべき神仏の警告であろうか、などと私は疑ったのでありました。


語釈
  • とりつくろふ【取り繕ふ】:修理する。手入れをする。
  • かたはづく【片端付く】:身体が不自由になる。
  • ひつじ【未】:南南西。
  • もののさとし【物の諭し】:神仏の啓示。何かの前兆。

平家滅亡の予兆?前後の時代背景

 平家滅亡への流れは、安元3(1177)年4月28日に起きた「安元の大火」の少し前から始まっていました。きっかけは後白河法皇が最も寵愛していた皇太后、建春門院(平滋子)の死。建春門院は平清盛の妻、時子の異母妹であり、後白河法皇と平清盛との間に入って衝突を抑えていました。その建春門院が亡くなると、両者の関係は悪化。権力を巡る争いが表面化します。

 安元の大火の1ヶ月後には、後白河法皇の近臣であった西光による平氏打倒計画が発覚。出撃直前の6月1日に計画が清盛にバレてしまい、西光は処刑されてしまいます(鹿ヶ谷の陰謀)。その2年後、治承3年11月には清盛が軍勢を率いて平安京を制圧し、後白河法皇を幽閉。ついに平氏一門が政治の実権を握りました(治承三年の政変)。

 しかし、この事件をきっかけに平氏をよく思っていなかった勢の不満が爆発。治承の辻風が吹き荒れる直前、治承4(1180)年4月9日には、後白河法皇の第3皇子「以仁王もちひとおう」が全国の源氏に平氏追討の令旨りょうじを発令。着々と準備を進め、自らも挙兵しようと意気込んでいましたが、治承の辻風が過ぎ去った直後、5月初旬に計画が漏洩。鹿ヶ谷の陰謀の二の舞となってしまいました。しかし、この時の以仁王の令旨により、後に鎌倉幕府を開く源頼朝や、平氏を都落ちさせる木曾義仲も挙兵しています。以仁王の呼びかけが、平家滅亡への糸口となりました。

 ちなみに、治承の辻風の1週間前、4月22日に安徳天皇が数え3歳(満1歳2ヶ月)で即位しています。安徳天皇は平清盛の孫。わずか数え8歳(満6歳4ヶ月)で、おばあちゃん(平清盛の妻、時子)に抱かれて壇ノ浦に入水することになる悲劇の幼帝です。なんか、自分で書きながら泣けてきました。権力や金に魂を売った大人ってクソですね。長明もいろいろと、思うところがあったのではないでしょうか。

清盛の暴挙極まる!福原への都遷り

 以仁王の計画が失敗に終わった直後、清盛は福原への遷都を実行します。治承の辻風から1ヶ月後の5月30日、以仁王の討伐に参加した武士に賞を与える際に清盛が伝えたといわれています。実行日はたった4日後の6月3日。関係者全員が驚きましたが、清盛自身はもっと早くから決めており、なんと1日前倒して6月2日から実行開始となりました。

 都を引っ越すという壮大で無謀な計画はわずか半年で頓挫し、平安京へと戻ることになります。長明は『方丈記』の中で、この暴挙を痛烈にディスりました。『方丈記』の前半部分の中でも特に読み応えがありますので、ぜひ続きもご覧ください♪